聖書を熱心に研究し、真理の愛を受けた者だけが、世界をとりこにする強力な惑わしから守られる。聖書のあかしによって、これらの者は欺瞞者サタンの変装を見破る。すべての人に試みの時がやってくる。試みのふるいによって、本物のキリスト者が明らかにされる。神の民は、自分の感覚的証拠に屈しないほど、今神のみ言葉に固く立っているだろうか。こうした危機においても、彼らは聖書に、しかも聖書だけにすがりつくだろうか。サタンは、できることなら、彼らがその日に立つ備えをするのを妨げようとする。サタンは彼らの道をふさぎ、この世の宝で彼らを迷わせ、重くて疲れさせる荷を負わせて、その心をこの世の煩いでいっぱいに満たし、試みの日が盗人のように彼らを襲うようにと、事を運ぶであろう。 GCJap 724.2
キリスト教国のさまざまな為政者たちが、戒めを守る者たちを抑圧するために出した法令によって、政府の保護が取り除かれ、彼らが彼らの滅亡を願う者たちの手に任されると、神の民は都市や村から逃れ、群れを作って最も荒れ果てたさびしい場所に住む。多くの者は山のとりでに避難所を見つける。ピエモンテの谷間のキリスト者たちのように、彼らは地の高い所を隠れ家とし、岩のとりでを神に感謝する(イザヤ書33章16節参照)。しかし、あらゆる国のあらゆる階級の人々が、身分の高い者も低い者も、富んだ者も貧しい者も、黒人も白人も、大勢の者が最も不当で残酷なとらわれの身に突き落とされる。神に愛されている者たちが、疲れきった日々を送り、鎖につながれ、牢獄の格子の中に閉じ込められ、死刑の宣告を受ける。ある者は暗く忌まわしい土牢の中で、餓死するままに放置されているように見える。彼らのうめきを聞く人間の耳はなく、彼らを助けようとする人間の手はない。 GCJap 725.1
この試みの時に、主はご自分の民をお忘れになるだろうか。主は、洪水前の世界に刑罰がくだった時、忠実なノアをお忘れになっただろうか。平地の町を焼き尽くすために火が天からくだった時、ロトをお忘れになっただろうか。エジプトで偶像礼拝者たちに囲まれていたヨセフをお忘れになっただろうか。イゼベルがエリヤをバアルの預言者と同じ運命にすると誓って彼を脅かした時、主はエリヤをお忘れになっただろうか。 GCJap 725.2
牢獄の暗く陰うつな穴にあったエレミヤをお忘れになっただろうか。火の炉の中の三人の人物を、あるいはライオンの穴の中のダニエルを、お忘れになっただろうか。 GCJap 725.3
「シオンは言った、『主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた』と。『女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。……』」(イザヤ書49章14~16節)。万軍の主は言われた、「あなたがたにさわる者は、彼の目の玉にさわるのである」(ゼカリヤ書2章8節)。 GCJap 725.4
敵が彼らを牢獄に投げ入れても、土牢の壁は彼らの魂とキリストとの交わりを断ち切ることはできない。彼らのあらゆる弱さを見、あらゆる試みを知っておられるお方は、地上のすべての権力にまさっておられる。そして天使はさびしい独房に彼らを訪れ、天よりの光と平安を伝える。牢獄は宮殿のようになる。それは信仰に富む者がそこに住んでいて、パウロとシラスがピリピの獄屋の中で真夜中に祈りをささげ賛美の歌声をあげた時のように、陰うつな壁が天の光で照らされるからである。 GCJap 726.1