神の民を抑圧し滅ぼそうと謀る者たちの上に、神の刑罰がくだる。悪人に対して神が長い間忍耐されたので、人々は大胆に罪を犯している。しかし、彼らに刑罰がくだるのが長い間延ばされているということは、その刑罰が確実なものでないとか、恐るべきものでないという理由には決してならない。 GCJap 726.2
「主はペラジム山で立たれたように立ちあがり、ギベオンの谷で憤られたように憤られて、その行いをなされる。その行いは類のないものである。またそのわざをなされる。そのわざは異なったものである」(イザヤ書28章21節)。憐れみ深いわれらの神にとって、罰するということは異なったわざである。「主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない」(エゼキエル書33章11節)。主は「あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、……悪と、とがと、罪とをゆるす者」である。しかし主は、「罰すべき者をば決してゆるさず」、「主は怒ることおそく、力強き者、主は罰すべき者を決してゆるされない者」である(出エジプト記34章6、7節、ナホム書1章3節)。 GCJap 726.3
主は、踏みにじられたご自分の律法の権威を、義の恐るべきわざによって擁護される。罪人を待ち受けている報復がどんなに厳しいものであるかは、主が刑罰の執行に気が進まれないことから判断することができる。主が長く忍ばれ、神の御目にその罪悪の升目が満たされるまではお打ちにならない国民も、ついには憐れみの混じらない怒りの杯を飲むのである。 GCJap 727.1
キリストが聖所における彼のとりなしをやめられる時、獣とその像を拝み、その刻印を受ける者たちに警告された、混ぜもののない怒りが注がれる(黙示録14章9、10節参照)。神がイスラエルを救い出そうとされた時に、エジプトにくだった災いは、神の民の最後の救出の直前に世界にくだるもっと恐ろしくもっと広範囲に及ぶ刑罰と類似した性格のものであった。黙示録の記者は、その恐ろしい災いを描写して次のように言っている。「獣の刻印を持つ人々と、その像を拝む人々とのからだに、ひどい悪性のでき物ができた」「海は死人の血のようになって、その中の生き物がみな死んでしまった」「川と水の源と(は)……みな血になった」。このような刑罰は恐ろしいものであるが、神の正義は完全に擁護されるのである。神の天使は、次のように叫ぶ。「このようにお定めになったあなたは、正しいかたであります。聖徒と預言者との血を流した者たちに、血をお飲ませになりましたが、それは当然のことであります」(黙示録16章2~6節)。彼らは、神の民を死に定めることによって、彼ら自身の手で血を流したのと全く同じ罪を犯したのである。同様に、キリストは、彼の時代のユダヤ人に、アベルの時代からのすべての聖徒たちの血を流した罪があると言われた。それは、彼らが、預言者たちを殺した人々と同じ精神を持ち、同じことをしようとしていたからである。 GCJap 727.2
それに続く災いにおいて、「太陽は火で人々を焼くことを許された。人々は、激しい炎熱で焼かれた」(同16章8、9節)。預言者たちは、この恐るべき時の地上の状態を次のように描写している。 GCJap 728.1
「地は悲しむ。これは穀物が荒れはて……るためである。……野のすべての木はしぼんだ。それゆえ楽しみは人の子らからかれうせた」「種は土の下に朽ち、倉は荒れ……る。……いかに家畜はうめき鳴くか。牛の群れはさまよう。彼らには牧草がないからだ。……水の流れがかれはて、火が荒野の牧草を焼き滅ぼしたからである」「『その日には宮の歌は嘆きに変り、しかばねがおびただしく、人々は無言でこれを至る所に投げ捨てる』と主なる神は言われる」(ヨエル書1章10~12、17~20節、アモス書8章3節)。 GCJap 728.2