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    告白

    「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける」(箴言28:13)。SC 1946.1

    神のあわれみを受ける条件は簡単で、しかも正しく合理的です。神は、私たちの罪がゆるされるには、何か面倒なことをしなければならないとは要求なさいません。長途の巡礼の旅に出たり、痛々しい苦行をしたりして、天の神に自分が良く思われようとしたり、罪の償いをしようとしなくてもよいのです。ただ罪を言いあらわして、これを離れる者はあわれみを受けるのです。SC 1946.2

    使徒ヤコブは、「互いに罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい」(ヤコブ5:16)と言っています。神のほか罪をゆるすことはできませんから、罪は神に告白しなければなりません。そして、過ちは互いに言いあらわすのです。もし友人や隣人をつまずかせたならば、自分は悪かったと認めて謝るのです。そして、それをこころよくゆるすのはその人の義務です。そうしたあとで神のゆるしを求めなさい。というのは、あなたが傷つけた兄弟は神のものですから、彼を傷つけたことは、彼の創造主、またあがない主に罪を犯したことになるからです。そしてこのことは、まことの仲保者であり、大祭司であるイエスの前に持ち出されます。主は、「わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われ」(ヘブル4:15)たのですから、どんな罪の汚点をも清めてくださいます。SC 1946.3

    自分の罪を認めて神の前にへりくだらない者は、神に受け入れられる最初の条件さえ果たしていないわけです。再び悔いることのない悔い改めをし、本当にへりくだった砕けた心で罪を告白し、自分の罪悪を心から憎んでいるのでなければ、真に罪のゆるしを求めたとは言えません。また、罪のゆるしを求めたことがなければ、神よりの平和を見いだすことはできません。私たちが過去の罪のゆるしを味わっていないただ一つの理由は、心を低くして真理のみ言葉の条件に従っていないからで、この点について次のようにはっきりと教えられています。罪の告白は、それが公のものであっても、個人的なものであっても、真心から、そして十分に言いあらわされなければなりません。罪人に無理に強いて言わせるものではありません。また、告白は軽率に不注意になされてはなりません。本当に、罪がどんなに忌まわしいものであるかを認めていない人に強いるものでもありません。心の奥底からわき出てきた告白は、限りないあわれみを持つ神へ通じます。詩人ダビデは、「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる」(詩篇34:18)と言っています。SC 1946.4

    真の告白は常に、はっきり自分の犯した罪そのものを言いあらわすのです。神にだけ告白すべきものもあるでしょう。または、だれか害をこうむった人々に告白しなければならないものもあるでしょう。あるいは公のものであれば、公に告白しなければならないこともあるでしょう。いずれにせよ、告白はすべてはっきりとその要点にふれていて、犯した罪そのものを認めねばなりません。SC 1947.1

    イスラエルの人々は、サムエルの時代に神より迷い出て、罪の結果に苦しまねばなりませんでした。それは彼らが、神への信仰と、神は知恵と能力をもって国を治められることを見失い、さらに神はご自身の働きをあくまで守られることを信じなくなったからです。彼らは宇宙の大いなる統治者を離れ、周囲の国々と同じような統治者を望んだのです。しかし平和を得るためには、次のようなはっきりした告白をしなければなりませんでした。「われわれは、もろもろの罪を犯した上に、また王を求めて、悪を加えました」(サムエル上12:19)と。つまり、悪かったと自覚したその罪が告白されなければならなかったのです。彼らの忘恩の精神が彼らの魂をおさえ、神より切り離していたのでした。SC 1947.2

    真面目な悔い改めと改革が伴わない告白は、神に受け入れられることはできません。はっきりとした変化が生活にあらわれ、神のきらわれるすべてのものを捨てねばなりません。本当に罪を嘆いた結果はそうなるのです。私たちのなすべきことは、はっきりと示されています。「あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ、善を行うことをならい、公平を求め、しえたげる者を戒め、みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ」(イザヤ1:16、17)。「すなわちその悪人が質物を返し、奪った物をもどし、命の定めに歩み、悪を行わないならば、彼は必ず生きる。決して死なない」(エゼキエル33:15)と。またパウロは、悔い改めについて「見よ、神のみこころに添うたその悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起させたことか。また、弁明、義憤、恐れ、愛慕、熱意、それから処罰に至らせたことか。あなたがたはあの問題については、すべての点において潔白であることを証明したのである」(Ⅱコリント7:11)と言いました。SC 1947.3

    罪のために道徳的知覚が鈍くなってしまうと、悪を行う者は自分の品性の欠陥を認めもしなければ、自分が犯した罪の恐ろしさを悟ることもありません。罪を示す聖霊の力に従わなければ、人は自分の罪に対して部分的に見えないでいるわけです。ですから、その人の告白は真面目でもなければ熱心でもありません。自分の罪を認めて悪かったとは言うものの、そのたびに自分の行為に弁解をつけ加え、ああいう事情さえ起こらなかったら、自分はああもしなかったしこうもしなかったし、何もしかられることはなかったのだと言います。SC 1947.4

    アダムとエバは、禁断の木の実を食べた後、言うに言われぬ恐れを強く感じました。最初、どのように自分たちの罪の言いわけをして、恐ろしい死の宣告を逃れようかと考えました。神が、彼らの罪を正された時、アダムはその罪をなかば神に、なかば自分の同伴者に負わせて「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」と答え、女はその責めをへびに負わせて「へびがわたしをだましたのです、それでわたしは食べました」(創世記3:12、13)と言いました。SC 1947.5

    どうしてあなたはへびをお造りになったのですか、どうしてへびをエデンの園にお入れになったのですかという質問が、この罪の言いわけのうちに含まれているのであって、それは彼らの堕落の責任は神にあると言っているのです。自己を義とする精神は、偽りの父である悪魔よりきたもので、アダムの息子、娘はみなこの精神をあらわしました。こうした告白は聖霊に動かされたものではありませんから、神に受け人れられることはできません。真の悔い改めは、自分の罪を自分で負い、何の虚飾も偽善もなく、罪を認めるのです。哀れな取税人のごとく目を天に向けることさえしないで、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と叫ぶのです。自分の罪を認める者は義とされます。というのは、イエスは悔い改めた魂のために、 自らの血をもって、執り成されたからです。SC 1947.6

    神のみ言葉には、悔い改めと謙遜の実例があげられていますが、そこには罪の言いわけをしたり、自己を正しいとするようなことが少しもない、真心からの告白の精神が見られます。パウロは、自分を弁護することなく、自分の罪をその恐ろしいままに描き、罪をいくらかでも軽くしようなどとは考えませんでした。彼は、次のように言っています。「多くの聖徒たちを獄に閉じ込め、彼らが殺される時には、それに賛成の意を表しました。それから、いたるところの会堂で、しばしば彼らを罰して、無理やりに神をけがす言葉を、ぞわせようとし、彼らに対してひどく荒れ狂い、ついに外国の町々にまで、迫害の手をのばすに至りました」(使徒行伝26:10、11)。また、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきてくださった』……わたしは、その罪人のかしらなのである」(Ⅰテモテ1:15)と言ってはばからなかったのです。SC 1948.1

    真に悔い改め、謙遜になった心は神の愛のいくぶんかを悟り、カルバリーの十字架の犠牲を心から感謝してやみません。そして子供が優しい父親に告白するように、本当に悔い改めた者は、神の前に自分の罪をみな持って行きます。み言葉にも「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(Ⅰヨハネ1:9)と記されています。SC 1948.2

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