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    山腹にて

    イエスがベツレヘムでご誕生になる14世紀あまり前、イスラエルの子らはシケムの美しい谷に集まっていた。両側の山からは祭司たちの声が聞こえて、一方からは祝福を、他方からはのろいを宣言していた。「もし、……あなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。もし……聞き従わ(ないならば)、のろいを受けるであろう」(申命記11:27、28)。こうして祝福の言葉が語られた山が、祝福の山として知られるようになった。しかし罪に沈み、悲しむ世界に祝福となった言葉が語られたのは、昔ながらのゲリジム山ではなかった。MB 1124.1

    ところで、イスラエルは、その前におかれた高い理想に達しなかった。ヨシュアならぬもう1人のお方が、信仰の真の休みに、主の民を導かなければならない。祝福の山として知られているのは、もはやゲリジム山ではなくて、ゲネサレ湖畔の名もない山である。その山の上から、イエスが、弟子たちと群衆に向かって、祝福の言葉を語られたのである。MB 1124.2

    わたしたちはその時の光景を心に描きながら、その時代にさかのぼってみよう。わたしたちも弟子たちと共に山腹にすわって、彼らの心を満たしていた思いを察してみることにしよう。イエスの言葉が、それを聞いた者にとってどんな意味をもっていたかを理解するなら、そのみ言葉の中に新しいはつらつさと美とを認めることができ、その深い教訓を自ら集めることもできるのである、MB 1124.3

    救い主が伝道を開始された時、メシヤとその働きに関して一般の人々がいだいていた考えは、人々が救い主を受けいれるのを全くさまたげていた。真の敬神の精神は、伝説と儀礼の中に失われてしまっていた。そして預言は、高慢な、世を愛する心が意図するままに、解釈されていた。ユダヤ人は、きたるべきお方を罪からの救い主として待ち望んだのではなかった。彼らはユダ部族の獅子の支配権の下に、すべての国をしたがえる偉大な王を待望したのである。MB 1124.4

    バプテスマのヨハネが、占代の預言者のごとく、心を見抜く力をもって彼らに悔い改めを叫んでもむだであった。彼がヨルダン河畔で、イエスを、世の罪を除く神の小羊と指摘したこともむだであった神は、苦難の救い主に関するイザヤの預言に、彼らの心を向けようと願っておられたのだが、彼らは聞こうとしなかった。MB 1124.5

    イスラエルの教師や指導者たちが、品性を変化させる主のめぐみにまかせるならば、イエスは彼らを、人々の間で、主の大使とされたことであろう。ユダヤにおいてまず王国の到来が宣言され、悔い改めの招きが発せられた。エルサレムの神殿から冒とく者どもを追い出される行為をなさることによって、イエスはご自分をメシヤ——罪の汚れから魂をきよめ、その民を主に聖なる宮とされるお方——として宣言されたのである、しかしユダヤの指導者たちは、へりくだって、ナザレから来た身分の低い教師を受け人れようとしなかった。イエスが2度目にエルサレムに行かれた時、彼は、サンヒドリンの前で尋問された。そして高官たちが、イエスの命をとらなかったのは、ただ民衆を恐れたためにほかならなかった。そこで主はユダヤを去って、ガリラヤ伝道に入られたのである。MB 1124.6

    主は、山上の説教をなさるに先だって、ここで数か月お働きになった。主がガリラヤ全上に伝えられた『天国は近づいた』という使信(マタイ4:17)は、すべての種類の人の心をひきつけた。彼らの野心は、ますます強くあおり立てられたのである。新しい教師の名声は、パレスチナ国境の外の地方まで広まった。宗教的指導者たちの態度をよそ目に、このお方こそ待望の救世主ではないかとの思いが広くゆきわたった。大群衆がイエスの行かれるところに群がり、民衆の熱狂は高まった。MB 1124.7

    これは、キリストと親しく交わってきた弟子が、主のお働きにもっと直接に結ばれる時であった。それというのは、この大群衆が牧者のいない羊のようにとり残されろことのないようにするためであった。弟子の中には、主の伝道の初期から加わっていた者もあっ た。そして12人のほとんど全部は、イエスの家族の一員として共に交わってきたのである。MB 1124.8

    しかし彼らもラビたちの教えにまどわされて、一般の人と同様に地上の王国が建設されるのを期待していた。彼らはイエスの態度を理解できなかった。すでに彼らはイエスが祭司やラビの支持を得て、ご自分の運動を強めるために何の努力もなさらないことや、地上の王としての権威をうち立てるために何もしておられないことをいぶかり、当惑していた。イエスが昇天される時、これらの弟子たちに与えられる聖なる委託に対して、彼らが準備ができるようになるためには、まだ、1つの大きな働きがなしとげられねばならなかった。けれども、彼らはすでにキリストの愛に応えていた。彼らの信じる心はにぶかったが、イエスは、彼らが大いなる働きのために訓練する価値のある人々であるのをごらんになったのである。こうして今、彼らは、主と共にいたことにより、主のお働きが神からのものであることについて、多少とも信仰をもつことができるようになった。民衆もまた、疑いをはさむ余地のないキリストのみ力の証拠を認めるようになっていた。そこで、人々がキリストの王国の真の性質を理解することができるように、その王国の原則が、公にされる準備が整ったのである。MB 1125.1

    イエスは、ガリラヤ湖の近くの山で、これら選ばれた者のためにただ1人で夜通し祈り明かされた。明け方に、主は彼らをみもとに召し寄せ、祈りと訓示の言葉とを与えて、み手を彼らの頭において祝福し、彼らを福音の働きのために聖別された。こうして、彼らをつれて湖畔にこられたのであったが、そこにはすでに早朝から、大群衆がぞくぞくとつめかけていた。MB 1125.2

    ガリラヤの町々から来たいつもの群衆に加えて、ユダヤから、また首都エルサレムから、あるいはペレアから、半異教のデカポリス地方から、ユダヤの南方のイドマヤ、さらに地中海沿岸のフェニキヤの町、ツロ、シドンから大勢の人々が集まってきた。「そのなさっていることを聞いて」、彼らは「教えを聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。……力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやした」(マルコ3:8、ルカ6:18、19)。MB 1125.3

    狭い岸辺には、イエスの言葉を聞こうと願うすべての者が、立ってみ声を聞くだけの場所もないので、イエスは山腹へと道を引き返された。大群衆のために、快い集会の場となるような広々としたところへこられると、イエスは草の上に腰をおろされ、弟子たちも群衆もそのようにした。MB 1125.4

    何かいつもと変わったことが起こるのではないかと期待して、弟子たちは主のみもとに近よった。その朝のできごとから察して、彼らは主がまもなく樹立されるものとあさはかにも望んでいた国について、何かの宣言が今なされるにちがいないと思った。同様の期待感は、群衆の中にも充満していた。彼らがどんなに深い興味をもっていたかは、その熱心な顔に見うけられた。MB 1125.5

    彼らが緑の山腹にすわり、神からの教師の言葉を待ちうけていた時、彼らの心は輝かしい未来のことで満たされていた。学者やパリサイ人たちは、彼らが憎むべきローマを支配し、大世界帝国の富と光栄を手に入れる日を待望していた。貧しい農夫や漁師は、彼らのみすぼらしい家、乏しい食物、骨折りの生活、欠乏のおそれなどが、ぜいたくな邸宅、安逸の日々にかえられるという保証の言葉を聞きたいと望んでいた。彼らは、日中は身にまとい、夜は毛布ともなる1つの粗末な衣服のかわりに、彼らの征服者の高価な衣服を、キリストが彼らに与えることを望んでいた。MB 1125.6

    すべての者の心は、イスラエルがまもなく主の選民として国々の前にあがめられ、エルサレムが世界王国の首都として高められるという、誇らしい希望におどっていたのである。MB 1125.7

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