第10章 罪を責める声
- 序
- 第1章 ソロモン王の選択
- 第2章 エルサレム神殿の建設
- 第3章 繁栄の落とし穴
- 第4章 権力者が倒れるとき
- 第5章 ソロモン王の改心
- 第6章 王国の分裂
- 第7章 悲劇の王ヤラベアム
- 第8章 急速にひろがった背信
- 第9章 預言者エリヤの出現
- 第10章 罪を責める声
- 第11章 カルメル山の対決
- 第12章 砂漠へ逃れる預言者
- 第13章 失敗から立ちあがる
- 第14章 預言者エリヤの力
- 第15章 妥協するヨシャパテ王
- 第16章 アハブ家の没落
- 第17章 預言者エリシャの召し
- 第18章 悪水を良水にかえる
- 第19章 平和をつくり出す人
- 第20章 大国シリヤからの訪問者
- 第21章 預言者工リシャの貢献
- 第22章 アッスリヤの首都ニネベ
- 第23章 大国アッスリヤの支配
- 第24章 破滅を定めるもの
- 第25章 預言者イザヤの召し
- 第26章 「あなたがたの神を見よ」
- 第27章 大国に援助を求めたアハズ王
- 第28章 熱心な改革者ヒゼキヤ王
- 第29章 虚栄のつけ
- 第30章 大国アッスリヤからの解放
- 第31章 諸国民の希望
- 第32章 暗黒時代をもたらしたマナセ王と改革の星ヨシヤ王
- 第33章 律法の書の発見
- 第34章 立ちあがった預言者エレミヤ
- 第35章 破滅が近い
- 第36章 ユダ王国の最後の王
- 第37章 バビロン捕囚
- 第38章 暗黒を貫く光
- 第39章 バビロン王宮の4青年
- 第40章 ネブカデネザル王の夢
- 第41章 火の燃える炉からの救い
- 第42章 真の偉大さとは何か
- 第43章 目に見えない守護者
- 第44章主義に固く立つ
- 第45章 バビロン捕囚から帰る
- 第46章敵対者に直面して
- 第47章大祭司ヨシュアと天使
- 第48章 権力をこえる力
- 第49章 王妃エステルの決心
- 第50章 学者エズラに導かれた改革
- 第51章 精神の大覚醒
- 第52章 総督ネヘミヤの活躍
- 第53章 市街の建てなおし
- 第54章 搾取に対する譴責
- 第55章 隣国の陰謀
- 第56章 律法の公布
- 第57章 改革が始まる
- 第58章 救い主を待望する人々
- 第59章 理想のイスラエル
- 第60章 栄光にみちた国が来る
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第10章 罪を責める声
本章は列王紀上17:8~24、18:1~19に基づくPK 440.2
エリヤはしばらくの間、ケリテ川の近くの山の中に隠れていた。そこで彼は3か月の間、奇跡的に食物が備えられた。後になって、かんばつが続き、川が乾いてしまった時に、神はエリヤに異邦の地に避難所を見つけるようにお命じになった。「立ってシドンに属するザレパテ(新約時代にはサレプタと呼ばれた)へ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」と神は彼にお命じになった(列王紀上17:9)。PK 440.3
この女はイスラエル人ではなかった。彼女は神の選民が享受した特権と祝福を受けたことはなかった。しかし、彼女は真の神を信じ、彼女の道を照らしたすべての光に従って歩いていた。そこで、イスラエルの地にエリヤが安心して住むところがなくなった時に、神はエリヤを彼女の家に送り、そこに避難させられた。PK 440.4
「そこで彼は立ってザレパテへ行ったが、町の門に着いたとき、ひとりのやもめ女が、その所でたきぎを拾っていた。彼はその女に声をかけて言った、『器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください』。彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、『手に一口のパンを持ってきてください』」(列王紀上17:10)。PK 440.5
飢饉はこの貧困にうちひしがれた家庭をきびしく傷めつけ、哀れにも乏しい食糧はなくなりかけていた。やもめ女が生きるための戦いをやめなければならないと思ったその時に、エリヤがやって来たことは、なくてならぬものを備えて下さるという、彼女の生ける神の力を信じる信仰に対する最大の試練であった。しかし、彼女は、貧窮の極に達していても、彼女の最後の食事を分けてほしいと願う旅人の要求に応じて、彼女の信仰のあかしを立てたのである。PK 440.6
食事と水を求めるエリヤの願いに応じて、やもめ女は言った。「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ2、3本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」(同17:2)。エリヤは、彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、1つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの 油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」(同17:13、14)。PK 440.7
これ以上に大きな信仰のテストを要求することはできなかった。やもめ女は、これまで、すべての旅人を親切に手厚くもてなしたのであった。今、彼女は、自分と子供が苦しみに会うことをも顧みず、イスラエルの神が、彼女のすべての必要を満たしてくださることを信じて、「エリヤが言ったとおりに」行い、旅人をもてなすことについてのこの最高のテストに耐えたのである。PK 441.1
このフェニキアの女が神の預言者に示した歓待の精神は、実に驚くべきものであった。そして、彼女の信仰と寛大な心とは、驚くばかりに報われたのである。「彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。PK 441.2
これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えたので、彼女はエリヤに言った、『神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか』。PK 441.3
エリヤは彼女に言った、『子をわたしによこしなさい』。そして彼女のふところから子供を取り、自分のいる屋上のへやへかかえて上り、自分の寝台に寝かせ、……そして3度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、……主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。PK 441.4
エリヤはその子供を取って屋上のへやから家の中につれて降り、その母にわたして言った、『ごらんなさい。あなたの子は生きかえりました』。女はエリヤに言った、『今わたしはあなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました』」(同17:15~24)。PK 441.5
ザレパテのやもめ女は、彼女の乏しい食物をエリヤに分け与えた。そして、その返礼として、彼女と彼女の息子の生命が保護されたのである。そして、試練と欠乏の時に、われわれよりさらに困窮状態にある人々に同情と援助を与えるすべての者に、神は大きな祝福を約束しておられる。神は、お変わりにならないのである。神の力は、エリヤの時代と比べて、今、少しも衰えていない。「預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け」るという約束は、それが救い主によって語られたときと少しも変わらず確実なものである(マタイ10:41)。PK 441.6
「旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした」(ヘブル13:2)。これらの言葉は、時の経過によって、少しもその効力を失っていないのである。われわれの天の父は、今もなお、神の子供たちの道に、わざわいのように見えるが、祝福となる機会をお備えになる。こうした機会を活用する人々は、大いなる喜びを味わうのである。「飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる」(イザヤ58:10、11)。PK 441.7
キリストは今日の忠実な彼のしもべたちに言われる。「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」。み名によって行われた親切な行為は、どれ1つとして、賞賛と報酬を受け損じることはない。そして、キリストは、神の家族のどんなに弱く卑しい者をも、同じように情け深くお認めになるのである。PK 441.8
「この小さい者のひとり」、すなわち、信仰とキリストを知る知識において子供のような人々に、「冷たい水1杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」と彼は言われる(マタイ10:40、42)。PK 441.9
長年のかんばつと飢饉の間、エリヤは、イスラエルの人々が偶像礼拝を離れて神に忠誠をつくすように、熱心に祈っていた。主のみ手が、災禍に苦しむ地上 に置かれていた間、預言者エリヤは忍耐強く待っていた。至るところに、苦難と欠乏のきざしを見た時に、彼の心は悲しみに締めつけられ、速やかに改革を起こす力が与えられることを熱望した。しかし、神ご自身が神のご計画を実行しておられるのであった。そして、神のしもべのなし得ることは信仰をもって祈りつづけて、決定的行動を起こす時がくるのを待つだけであった。PK 441.10
アハブの時代にはびこった背信は、長年の邪悪な行為の結果であった。イスラエルは、年ごとに1歩1歩、正しい道から離反していったのであった。彼らは、幾世代にもわたって、彼らの足のために、真っすぐな道をつくることを拒んだのであった。そして、ついに、大半の人々が暗黒の力の導くがままに従っていった。ダビデ王の治世下にあって、イスラエルが、神の日ごとの恵みに全的に依存していることを認めて、喜ばしい声をあげ、至高者であられる神に賛美の歌を歌って以来、約1世紀が経過したのである。彼らが歌った賛美の言葉を聞いてみよう。PK 442.1
そのうねを整え、夕立をもってそれを柔らかにし、PK 442.11
その時、イスラエルは、神が「地をその基の上にすえ」たかたであることを認めていた。彼らはその信仰を表して次のように歌った。PK 442.20
「あなたはこれを衣でおおうように大水でおおわれた。PK 442.21
地と海と大空の自然の力が、定められた境のなかにおかれているのは、無限の神の大いなる力によるのである。そして、神は、こうした力を、神がお造りになったものの幸福のためにお用いになるのである。「その宝の蔵」は惜しみなく費やされて「雨を季節にしたがって…降らせ」人の手の「すべてのわざを祝福される」のである(申命記28:12)。PK 442.30
主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。PK 442.43
あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。PK 442.44
その中に無数のもの、大小の生き物が満ちている。PK 443.3
あなたがお与えになると、彼らはそれを集める。PK 443.6
あなたが手を開かれると、彼らは良い物で満たされる」PK 443.7
イスラエルは喜ぶ理由を数限りなく持っていたのである。主が彼らを導きいれられた地は、乳と蜜の流れる国であった。荒野を放浪していた時に、神は彼らが雨の不足に苦しまねばならぬことは全くない国に彼らを導くという確証をお与えになったのであった。神は彼らに言われた。PK 443.9
「あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある」。PK 443.10
豊かな雨の約束は服従を条件にして与えられたのである。主は次のように言われた。「もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう」。PK 443.11
主は彼の民に警告して言われた。「あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さずあなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう」(申命記11:10~17)。PK 443.12
イスラエルには次のような警告が与えられていた。「しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば」、「あなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となるであろう。主はあなたの地の雨を、ちりと、ほこりに変らせ、それが天からあなたの上にくだって、ついにあなたを滅ぼすであろう」(申命記28:15、23、24)。PK 443.13
主は古代のイスラエルにこうした賢明な勧告をお与えになったのである。「それゆえ、これらのわたしの言葉を心と魂におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし、これを子供たちに教え、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それについて語」らなければならない(同11:18、19)。PK 443.14
これらの言葉は明白であったにもかかわらず、幾世紀かが経過して、世代が移り変わるにつれて、彼らの霊的繁栄のために設けられた条件が見失われて、背信という破壊的影響力が神の恵みの障壁を1つ残らず一掃しようとしていた。PK 443.15
このようなわけで、神は、今、神の民に神の最も峻厳な刑罰を下されたのである。エリヤの預言は恐ろしいまでに成就していた。3年の間、災害を宣告した使命者の捜索は、町から町へ、国から国へとつづけられた。アハブの命令によって、多くの王たちは、見なれぬ預言者が彼らの国にはいないという宣誓をしなければならなかった。それでも捜索は続けられた。というのは、イゼベルとバアルの預言者たちは、エリヤを極度に憎んで、あらゆる手段を講じて彼を自分たちの手中に陥れようとしていたからである。それでもなお雨は降らなかった。PK 443.16
ついに、「多くの日を経て」、「行って、あなたの身をアハブに示しなさい。わたしは雨を地に降らせる」という主の言葉がエリヤに臨んだ(列王紀上18:1)。PK 443.17
エリヤは、その命令に従って、「その身をアハブに 示そうとして行った」。預言者エリヤが、サマリヤに向かって旅に出たちょうどそのころ、アハブは、家司オバデヤに飢えた群れや家畜のための草をさがすために、国中の水の源と小川を調査するように命じた。宮殿においてさえ、長く続いたかんばつの影響が痛切に感じられた。王は自分の家族の将来を深く憂えて、自分みずから、彼のしもべに加わって、適当な牧場をさがしに出かけることにした。「彼らは行き巡る地をふたりで分け、アハブはひとりでこの道を行き、オバデヤはひとりで他の道を行った」(同18:6)。PK 443.18
「オバデヤが道を進んでいた時、エリヤが彼に会った。彼はエリヤを認めて伏して言った、『わが主エリヤよ、あなたはここにおられるのですか』」(同18:17)。PK 444.1
イスラエルが背信していた間、オバデヤは忠実さを持ち続けていた。彼の主であった王も、彼を生ける神に背かせて、その忠誠心を失わせることはできなかった。ここで、彼は、「行って、あなたの主人に、エリヤはここにいると告げなさい」というエリヤの伝言を伝える光栄に浴した(同18:8)。PK 444.2
すると、オバデヤは非常に恐れて、「わたしにどんな罪があって、あなたはしもべをアハブの手にわたして殺そうとされるのですか」と言った。こうした伝言をアハブに伝えるということは、死を招くことになることは確かであった。オバデヤは預言者に説明して言った。「あなたの神、主は生きておられます。わたしの主人があなたを尋ねるために、人をつかわさない民はなく、国もありません。そしてエリヤはいないという時は、その国、その民に、あなたが見つからないという誓いをさせるのです。あなたは今『行って、エリヤはここにいると主人に告げよ』と言われます。しかしわたしがあなたを離れて行くと、主の霊はあなたを、わたしの知らない所へ連れて行くでしょう。わたしが行ってアハブに告げ、彼があなたを見つけることができなければ、彼はわたしを殺すでしょう」(同18:9~12)。PK 444.3
オバデヤは、エリヤが、彼を強いてつかわさないように熱心に嘆願して言った。「しかし、しもべは幼い時から主を恐れている者です。イゼベルが主の預言者を殺した時に、わたしがした事、すなわち、わたしが主の預言者のうち100人を50人ずつほら穴に隠して、パンと水をもって養った事を、わが主は聞かれませんでしたか。ところが今あなたは『行って、エリヤはここにいると主人に告げよ』と言われます。そのようなことをすれば彼はわたしを殺すでしょう」(列王紀上18:12~14)。PK 444.4
エリヤは、厳粛に誓って、この伝言が、むだになることはないことをオバデヤに約束した。「わたしの仕える万軍の主は生きておられる。わたしは必ず、きょう、わたしの身を彼に示すであろう」。こうした確証のもとに、「オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げた」(同18:15、16)。PK 444.5
王は、彼が恐れ憎んでいたエリヤからの伝言を、恐怖の入り混じった驚きをもって聞いた。王は、彼を必死になって捜し求めていたのであった。王は、エリヤが、ただ、王に会うことだけのために、彼の生命を危険にさらすことをしないのを、よく知っていた。エリヤは、イスラエルに対して、もう1つの災害を宣言しようとしているのであろうか。PK 444.6
王の心は恐怖に襲われた。彼はヤラベアムの手が枯れたことを思い出した。アハブは召しに従うことを避けることもできなければ、神の使者に対して手を上げることもできなかった。そこで、恐怖におののく王は護衛の兵隊たちを連れて、エリヤに会うために出かけた。PK 444.7
王と預言者はたがいに面と向かい合って立っている。アハブは激しい憎しみを抱いているにもかかわらず、エリヤの前では、女々しく、力がぬけたように思われる。彼は、まず、どもりながら、「イスラエルを悩ます者よ、あなたはここにいるのですか」と言い、無意識のうちに、彼の心の奥にひそむ感情をあらわすのである。アハブは、天が青銅のようになったのは、神の言葉によるものであったことを知ってはいたがそれでもなお、彼は、地に下った厳しい刑罰の責任を預言者に負わせようとしていたのである。PK 444.8
悪を行う者たちは、義の道を離れた当然の結果と して下る災害を神の使命者たちのせいにするものである。サタンの権力下に身をおくものは、神がごらんになるように、物事を見ることができない。真理の鏡が彼らの前にさし出される時に、彼らは譴貢を受けたと思って腹を立てる。彼らは罪に目をくらまされて、悔い改めることを拒否する。彼らは、神のしもべたちが彼らに敵対し、厳しい非難を受けるに値すると考える。PK 444.9
エリヤは自分の潔白なことを意識して、アハブの前に立ち、自分を弁解しようとも、また、王にへつらおうともしないのである。また、かんばつは、ほとんど終わったというよい知らせによって、王の怒りを避けようともしないのである。彼は何の謝罪もしないのである。彼はいきどおりと神のみ栄えのための熱意に燃えて、アハブの告発を彼に帰して、この恐ろしい災害をイスラエルにもたらしたのは、彼の罪であり、彼の先祖の罪であると、恐れることなく王に宣言するのである。「わたしがイスラエルを悩ますのではありません。あなたと、あなたの父の家が悩ましたのです。あなたがたが主の命令を捨て、バアルに従ったためです」とエリヤは、勇敢に断言した(同18:18)。PK 445.1
今日、断固とした譴責の声が必要である。なぜならば、悲しむべき罪が、人々を神から引き離したからである。不信が急速に広く行きわたっている。幾千という人々は、「この人が王になるのをわれわれは望んでいない」というのである(ルカ19:14)。よく聞く耳ざわりのよい説教は、心に永続的印象を与えない、ラッパは音をはっきり出さない。人々は、神の言葉の明白で鋭い真理によって、心が切り裂かれない。PK 445.2
もしその本心を表現するならば、そのように明白に語る必要があろうか、という自称キリスト者たちが多くいる。彼らは、また、バプテスマのヨハネがパリサイ人に、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか」と言う必要があったのだろうかとたずねる(ルカ3:7)。また、ヨハネは、なぜヘロデに、兄弟の妻と共に住むことは正しくないと言って、ヘロデヤの怒りを招く必要があったのだろうか。キリストの先駆者は、はっきり物を言ったために、その生命を失ったのである。彼は、罪のうちに生活している人々の怒りを引き起こさないで、通りすごすことはできなかったのであろうか、と彼らはたずねるであろう。PK 445.3
このように、神の律法の忠実な擁護者として立つべき者が論じ合い、ついに、忠実さのかわりに方策が取りいれられて、罪が譴責されずにまかり通っている。教会の中に、忠実な譴責の声がもう1度聞かれるのは、いったい、いっのことであろうか。PK 445.4
「あなたがその人です」(サムエル下12:7)。ナタンが、ダビデに語ったこうした明白で間違う余地のない言葉が、今日、教会の講壇から聞かれることはほとんどなく、また、公の印刷物にもほとんど見ることができないのである。もし、こうした言葉が、これほどまれでなかったならば、もっとわれわれの間に神の力があらわれるのを見ることであろう。主の使命者たちは、賞賛を愛する心と、人の歓心を得たいと思う心を悔い改めるのでなければ、彼らの努力が実を結ばないことをつぶやくべきではない。こうした精神が、彼らに真理を抑圧させるのである。PK 445.5
神が平安をお語りにならないのに、平安、平安と叫んで人を喜ばせるこうした牧師たちは、神の前に心を低くして、彼らの不誠実と道徳的勇気の欠乏についてゆるしを求めるべきである。彼らが、彼らにゆだねられた言葉をなめらかにしたのは、彼らが隣人を愛したためではなくて、彼らが、放縦で、安逸を愛していたからである。真の愛はまず神の栄えと魂の救いを求める。この愛をもっている人々は、率直に語るために引き起こされる不愉快な結果を避けようとして、真理を回避することはない。魂が危機に陥っているならば、神の使者たちは、自分たちのことを考えず、悪を弁解したり、取り繕ったりしないで、彼らに与えられた言葉を語るのである。PK 445.6
すべての牧師が、その地位とその働きの神聖さを自覚して、エリヤが示したような勇気を示してほしいものである。牧師たちは、神の任命を受けた使者 として、大きな責任のある地位におかれている。彼らは、「あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧め」なければならない(Ⅱテモテ4:2)。彼らは、キリストにかわって、天の奥義の管理者として働き、従順なものを励まし、不従順なものに警告を与えなければならない。彼らは世俗の策略を重んじてはならない。彼らはイエスが彼らにお命じになった道から足を踏み外してはならない。彼らは多くの証人に雲のように囲まれていることを覚えて、信仰をもって前進しなければならない。彼らは、自分自身の言葉を語るのではなくて、地上の王たちより偉大なお方が語るようにお命じになった言葉を語らなければならない。彼らの言葉は、「主はこう言われる」でなければならない。神は、エリヤ、ナタン、バプテスマのヨハネのような人々、すなわち、結果がどうなろうとも、忠実に神の言葉を伝える人々を召しておられる。また、所有するすべてのものを犠牲にすることを要求されても、勇敢に真理を語る人々を、神は召しておられるのである。PK 445.7
すべての者の力と勇気と影響力とが必要な危機において、神は、正義のために固く立つことを恐れる人々をお用いになることはできない。神は、悪と忠実に戦い、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また、天上にいる悪の霊と戦う人々を召しておられるのである。神は、このような人々に対して、「良い忠実な僕よ、よくやった。……主人と一緒に喜んでくれ」と言われるのである(マタイ25:23)。PK 446.1