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患難から栄光へ - Contents
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    第五章   聖霊の働き

    弟子たちにみたまを約束されたとき、キリストはこの地上でのみわざの終わりに近づいておられた。罪を負う者としてご自身にのしかかる罪の重荷を十分に認識されて、十字架の影にお立ちになっていた。キリストは、犠牲としてご自身をおささげになる前に、弟子たちに与えようとしておられた絶対に必要で完全な賜物、限りない主の恵みの富を、彼らのもとに届けてくれる賜物についてお教えになった。AAJ 43.1

    「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」(ヨハネ一四ノ一六、一七)。救い主は聖霊が主の代表者として、やがて大きな働きをする時があることをご指摘になった。聖霊の神聖な力は、幾世紀 ものあいだ積み上げられてきた悪と戦わなければならなかった。AAJ 43.2

    ペンテコステの当日、聖霊が注がれたその結果はどうであったろうか。復活された救い主についての喜ばしい知らせは、人の住むところにはどこにでも伝えられた。弟子たちがあがないの恵みについての使命を伝えると、人々の心はこの使命の力に従った。教会は四方から集まってくる改心者を見守った。信仰を棄てた人々ももう一度悔い改めた。罪人たちは、高価な真珠を求めて信者たちに加わった。福音に最も激しく反対していた人々もその擁護者になった。「彼らの中の弱い者も・・・・ダビデのようになる。またダビデの家は・・・・主の使のようになる」という預言が成就した(ゼカリヤ書一二ノ八)。どのクリスチャンもみな、お互いのうちに神の愛と慈善心があらわれているのを見た。ただ一つの関心が支配し、一つの対象を求める熱意が他のすべてをのみこんだ。信徒の望みはキリストのご品性に似たものとなることであり、神の国を発展させるために働くことであった。AAJ 44.1

    「使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた」(使徒行伝四ノ三三)。彼らの働きによってすぐれた人々が教会に加えられた。これらの人々は真理のことばを受け入れて、自分たちの心によろこびと平安を満たしてくれた望みを、他人に分け与える働きに生涯をささげた。彼らはどんな脅迫によっても、拘束されたり脅かされたりすることはなかった。主は彼らによってお語りになり、彼らの行く先々で、貧しい者たちは福音が自分たちに語られるのを聞いた。そして、神の恵みの奇跡が起こった。AAJ 44.2

    人が聖霊の支配に身をゆだねる時、神はこのように大いなる働きをなさることができるのである。AAJ 45.1

    聖霊の約束は一時代や一民族に限られたものではない。キリストは、みたまの聖なる感化は世の終わりにいたるまで、キリストに従う者の上にあると宣言なさった。ペンテコステの日から現代にいたるまで、主とそのみわざに自分のすべてをささげてきた人々に、助け主が送られてきた。キリストを個人的な救い主として受け入れたすべての者に、聖霊は助言者、聖別する者、導き手、証人としてのぞんだ。信ずる者たちは、神に密接につながって生活すればするほど、あがない主の愛と救いの恵みについて一層はっきりと力強くあかしした。幾世紀にもわたる長い迫害と試練の時代に生きて、生涯、聖霊が豊かにとどまった人々は、この世におけるしるしとなり、不思議となった。彼らは天使や人々の前で、人の心を変えるあがないの愛の力をあらわしてきた。AAJ 45.2

    ペンテコステに天から力をさずけられた人々でも、それ以後、もはや誘惑や試みを受けなかったわけではない。彼らは真理や義のためにあかしをしているとき、すべての真理の敵にくり返しおそわれた。敵は彼らのクリスチャン経験を堕落させようとしたのである。彼らは神から与えられた力の限りをつくして、キリスト・イエスにある男女の水準に到達しなければならなかった。また、完全を目指してより高い高みへ達するために、日ごとに新たな恵みを求めて祈った。どんなに弱い者でさえも、聖霊の働きにより、神を信じる信仰を表すことによってきよめられ、洗練され、高尚にされるように、各自に与えられた力を磨くことを学んだ。彼らは謙遜に、聖霊のつくり変える感化力に自分をゆだねたとき、神の 徳を豊かに受けて、神に似たものにつくりかえられた。AAJ 45.3

    キリストがご自分の代表者として聖霊を送るという別れの約束は、時がたっても変わりはない。み霊の恵みが豊かに地上の民に注がれないのは、神が制限しておられるからではない。もし約束の実現がみられないとすれば、それは約束が理解されていないからである。もしだれでも求めるならば、すべてのものはみ霊に満たされるのである。聖霊の必要性を重大に考えていないところには必ず、霊的なかわき、霊的な暗黒、霊的な堕落と死がある。小さな事に気を奪われているときにはいつでも、教会の成長と繁栄に必要な、しかもその後にさまざまの祝福をもたらす神の力が、たとえ限りなく豊富に提供されていても、なお欠けているのである。AAJ 46.1

    これこそ、われわれが力を受ける手段なのだから、み霊の賜物を飢えかわくように求めようではないか。それについて語り、そのために祈り、そのことについて説教しようではないか。両親がその子供たちによい贈り物を与えるときよりももっと気持ちよく、主は人々に聖霊を与えてくださる。み霊のバプテスマを日ごとに受けるためには、働き人がめいめい神に願いをささげなければならない。クリスチャンの働き人は仲間同士集まって、いかに計画し、賢く実行するかということを知ることができるように、特別な助けと天来の知恵を求めなければならない。彼らは特に神がみずからお選びになった大使たちに、任地でみ霊を豊かに注いでくださるように、祈らなければならない。み霊が神の働き人と共にいるとき、真理の宣伝には、この世の名誉や栄光のすべてをもってしても与えることのできない力が加えられるの である。AAJ 46.2

    神のために献身した働き人がどんな場所にいようと、み霊は共に住んでくださる。弟子たちに語られたことばは、同時にわれわれにも語られている。助け主は彼らのものであるばかりでなく、われわれのものである。どんな緊急の際でも、この世の憎しみのまっただ中にあっても、み霊は、もがき、格闘している魂をささえる力をさずけられる。また彼らの失敗や誤りに気づかせてくださる。悲しみや苦しみの中で、見通しは暗く、未来は難問題ばかりのように見えるとき、また、どうしようもない孤独感におそわれているとき、こうした時こそ、聖霊は信仰の祈りに答えて、心を慰めてくださるのである。AAJ 47.1

    異常な環境の中で霊的な恍惚状態をあらわしたからといって、その人がクリスチャンであるなどという確証にはならない。聖潔は忘我の境地ではない。それは意志を全く神に従わすことである。それは神のみ口から出る一つ一つのことばで生きることであり、天の父なる神のみこころをなすことである。光のうちにいるときと同様に、試練のときにも暗黒のときにも神により頼むことである。また、目で見て歩くのでなく、信仰によって歩むことである。それは少しも疑わずに確信をもって神に頼み、神の愛に安らぐことである。AAJ 47.2

    聖霊とは何であるか、その正確な定義づけをする必要はない。み霊は助け主「父のみもとから来る真理の御霊」であるとキリストは言っておられる。聖霊については、人々をあらゆる真理に導く働きにおいて「それは自分から語るのではな」いとはっきり述べられている(ヨハネ一五ノ二六、一六ノ一三)。AAJ 47.3

    聖霊の性質は神秘である。人間はそれについて説明することができない。なぜなら、主がそれを彼らに明らかにされていないからである。空想的な考えを持った人々は聖霊について書かれた聖句を集めて、人間的な解釈をつくり上げるかもしれないが、そのような見解を受け入れたところで教会を強化することにはならない。余りに深いので人間には理解できないこのような神秘については、沈黙が金である。AAJ 48.1

    聖霊の働きはキリストのみことばに明細に記されている。「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」(ヨハネ一六ノ八)。罪を自覚させるものは聖霊である。もし罪人がみ霊の生きかえらせる感化力に反応するならば、彼は改心へと導かれて、神の要求に従うことの重大さに目覚めるであろう。AAJ 48.2

    義に飢えかわく、悔い改めた罪人に、聖霊はこの世の罪を取り除く神の小羊を示す。「わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである」とキリストは言われた。「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」(ヨハネ一六ノ一四、一四ノ二六)。AAJ 48.3

    聖霊はあがない主の死によって可能となった救いを与えるために、霊的な生まれかわりの力として賜るものである。み霊は、カルバリ-の十字架上でささげられた大きな犠牲に人々の注意を向けさせ、この世に神の愛を示し、改心した人々に聖書の大切な事柄を提示しようと絶えず努めている。AAJ 48.4

    聖霊は人々に罪を認めさせ、義の標準を心に示してから、この世のものに対する愛着を取り除き、魂 を聖なる事物への願望で満たす。「あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」と、救い主は言われた。もし人々が作りかえられることを望むならば、全人格のきよめがなし遂げられるであろう。み霊は神に関する事柄を取り、それを魂に刻みつける。み霊の力によっていのちの道は明らかにされ、そこではだれも過ちをおかす必要がない。AAJ 48.5

    はじめから、神は堕落した人類を救うご計画を完成するために人々を用い、聖霊によって働いてこられた。これは父祖たちの生活にはっきりあらわされていた。モーセの時代の荒野の教会に対しても、神は「良きみたまを賜わって彼らを教え」られた(ネヘミヤ記九ノ二〇)。使徒の時代にも、神は聖霊の力により教会のために偉大な働きをなさった。父祖たちをささえ、カレブやヨシュアに信仰と勇気を与え、使徒の教会の働きを効果的なものにした同じ力が、後につづくすべての時代に神の忠実な子らをささえてきた。ワルドー派のキリスト教徒が、暗黒の時代に改革の道を備える助けをしたのも、聖霊の力によるものであった。現代の伝道事業を確立するために道を開拓したり、聖書をあらゆる国家、民族の言葉や方言に翻訳したすぐれた人々の立派な努力も、同じ聖霊の力によるものであった。AAJ 50.1

    そして今日もなお、神はご自身の目的をこの地上に知らせるために教会を用いておられる。今日、十字架の使者たちは町から町へ、ある地方から他の地方へとキリスト再臨の道を備えに出ていく。神の律法の標準は高められつつある。全能の神のみ霊は人々の心に働きかけて、その感化を受けるものたちは、神と神の真理のために証人となるのである。献身した人々が、キリストによる救いの道を明らかにして くれた光を、他の人々に伝えている姿をあちこちに見かけるであろう。そして、彼らは、ペンテコステの日にみ霊を受けた人々と同じように、その光を輝かしつづけるならば、み霊の力を更に多く受け、こうして地は神の栄光に輝くのである。AAJ 50.2

    一方、現在の機会を賢明に生かそうともせず、他の人々を啓蒙けいもうする能力が一段と増し加えられる時、すなわち、霊による特別の刷新の時期を、何もしないで待っている人々がいる。彼らは、現在の義務と特権を怠り、彼らの光をほの暗いままにさせておき、それでいて、特別の祝福にあずかる者となる時を待っている。その時がくれば、何の努力もせずに、奉仕をするのにふさわしく変えられると思っているのである。AAJ 51.1

    地上における神のみわざが閉ざされる終末の時には、聖霊の導きにより、献身した信徒たちのささげる熱心な努力に、神の恵みの特別なしるしが伴うのは事実である。種まき時と、収穫のころに東方の国国に降る前の雨、後の雨という比喩ひゆを用いて、ヘブルの預言者たちは、神の教会に異常なほど豊かに霊的恵みがさずけられることを預言した。使徒の時代の聖霊の降下は前の雨、またはさきの雨の始まりであった。そして、その結果はすばらしかった。終わりの時まで聖霊はまことの教会に臨在するのである。AAJ 51.2

    地上の収穫が終わりに近くなると、教会を人の子イエスの来臨に備えるために、霊的な恵みが特別に与えられると約束されている。この聖霊の降下は後の雨にたとえられている。クリスチャンは「春の雨の時」にこの特別の力を収穫の主に求めなければならない。これにこたえて「主はいなずまを造り、大雨 を人々に賜い」、「豊かに雨を降らせ、・・・・秋の雨と春の雨とを降らせられる」(ゼカリヤ書一〇ノ一、ヨエル書二ノ二三)。AAJ 51.3

    しかし、今日、神の教会の信徒たちは、すべての霊的成長の源であられる神との強いつながりを持っていなければ、刈り人れの時に備えていることにならないであろう。彼らは絶えずランプのしんを切りそろえて、燃やしていなければ、いざというときに特別の恵みにあずかることができない。AAJ 52.1

    恵みを絶えず新たに受けている者たちだけが、日常の必要に応じて、また力を用いる彼らの能力に応じて、力を受けるであろう。霊的な力が特別に賦与されて、やがて救霊のために驚異的な装備を受ける時が来るのを待ち望むのではなく、彼らは、神の御用にふさわしい器としていただくために、日ごとに神に従っている。彼らは手の届く範囲にある奉仕の機会を毎日利用している。家庭の地味な仕事をしていても、あるいは、有用な社会の職場にいても、どこででも彼らは主のためにあかしを立てている。AAJ 52.2

    キリストでさえこの地上でのご生涯に、毎日必要な恵みを神に求められたということは、献身的な働き人にとって、すばらしい慰めである。神とのこの交わりから、イエスは力を受けて、人々を力づけ、祝福するために出て行かれた。神のみ子が父の前にこうべをたれて祈っておられる姿を見よ。イエスは、神のみ子であったが、祈りを通してご自分の信仰を強め、天との交わりによって、悪に抵抗し、人類の必要に奉仕する力をお受けになった。人類の長兄としてキリストは、弱さに取りまかれ、罪と誘惑の世に住みながらなお、主に仕えたいと望む者たちの必要をごぞんじである。また、主がつかわすにふさわ しいと思っておられる使者たちが、弱く過ちをおかしやすい人間であることもごぞんじである。しかし主の働きに全く献身するすべての人に、主は神からの援助を約束しておられる。神に頼りきって、みわざに惜しみなく献身する信仰、この信仰をもって神に熱心に、忍耐強く懇願すれば、罪との戦いにおいて聖霊の助けを必ず受けることができる。このことを主ご自身の模範は保証している。AAJ 52.3

    キリストの模範に従う働き人はみな、地上の収穫物を実らせるために神が教会に約束された力を受け、これを用いるために備えをする。朝ごとに福音の使者が主の前にひざまずいて、献身の誓いを新たにするとき、神は信仰を覚醒させ、きよめる力をもった聖霊の臨在をお与えになる。日々の勤めに出かけるとき、彼らは見えない聖霊の力によって「神と共に働く者たち」となることができるという保証を受けるのである。AAJ 53.1

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