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患難から栄光へ - Contents
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    第六章   美しの門での奇跡

    本章は使徒行伝三章、四章一節-三一節に基づくAAJ 54.1

    キリストの弟子たちは自分たちの無能力を深く自覚し、謙遜に、祈りながら、彼らの弱さをキリストの強さに、彼らの無知をキリストの知恵に、彼らの無価値さをキリストの義に、彼らの貧しさをキリストの尽きることのない富に結びつけた。こうして強められ、必要な能力を身につけて、彼らは主への奉仕におくすることなく前進した。AAJ 54.2

    聖霊降下ののち間もなく、熱心な祈りの時間の直後に、ペテロとヨハネは宮に礼拝に出かけたが、美しの門のそばに足のきかない男がいるのを見た。彼は生まれた時から四十才の今まで、苦痛と病気の生活を送っていたのである。この不幸な男は、イエスに会って、いやしていただきたいと長いあいだ願いつづけていた。だが、彼はほとんど体の自由がきかず、偉大な医師、イエスのご活躍の場から遠くへ移されていた。彼の嘆願はやっと聞かれて、何人かの友達が彼を宮の門まで運んで行った。しかし、彼は、 宮に着いてすぐ、あれほど望みをかけていたおかたがすでに残酷な死を遂げたことを知った。AAJ 54.3

    彼の失望は、彼がイエスにいやされることをどれほど前から熱心に望みつづけていたかを知っていた人々の同情を買った。そして彼らは、通行人が彼をあわれんで、その困窮を和らげるためにわずかな物でも彼に恵んでやる気持ちになるようにと、毎日彼を宮に運んできた。ペテロとヨハネが通りかかると、彼はふたりに施しをこうた。弟子たちは気の毒そうに彼を見た。ペテロが言った、「わたしたちを見なさい」。「彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、ペテロが言った、『金銀はわたしには無い』」。ペテロが自分の貧しさを説明すると、足のきかない男の表情は沈んだ。しかし、ペテロが続けて、「しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言うと、男の顔は希望に輝いた。AAJ 55.1

    「彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、これが宮の『美しの門』のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。AAJ 55.2

    彼がなおもペテロとヨハネとにつきまとっているとき、人々は皆ひどく驚いて『ソロモンの廊』と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まってきた。」人々は、イエスが奇跡を行ったように、この弟子たちも奇跡を行うことに驚いた。しかもここに、四十年間、無力な足なえであったこの男が、今や苦 痛から解放され、手足を自由に動かしてよろこび、またイエスを信じてしあわせそうにしているのだ。AAJ 55.3

    弟子たちが人々の驚きを見たとき、ペテロが尋ねた。「なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか」。ペテロは、そのいやしがナザレのイエスの名により、主の力によってなされたもので、そのイエスを神は死からよみがえらせられたのだと、彼らに説明した。「イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で、このとおり完全にいやしたのである」と、使徒ペテロは強調した。AAJ 57.1

    使徒たちは、いのちの君イエスを拒んで死なせたユダヤ人たちの罪が大きいことをはっきり語った。しかし彼らは、人々を絶望に陥れないように気遣った。「あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である」とペテロは言った。「さて、兄弟たちよ、あなたがたは知らずにあのような事をしたのであり、あなたがたの指導者たちとても同様であったことは、わたしにわかっている。神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。」ペテロは、聖霊が彼らの悔い改めと改心を求めていると強調し、彼らが十字架にかけたかたのあわれみがなくては、絶対に救いの望みがないと言った。キリストを信じる信仰によってのみ、彼らの罪はゆるされることができた。AAJ 57.2

    「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい」とペテロは叫んだ。AAJ 58.1

    「あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である。神はアブラハムに対して、『地上の諸民族は、あなたの子孫によって祝福を受けるであろう』と仰せられた。神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである。」AAJ 58.2

    こうして弟子たちは、キリストの復活を説いた。聞いていた者たちの多くは、このあかしを待っていた。だから、それを聞いたとき、彼らは信じたのである。それは、キリストが語っておられたみことばを彼らに思い出させた。彼らは福音を受け入れた人々の列に加わった。救い主がおまきになった種は、芽を出し実を結んだ。AAJ 58.3

    弟子たちが人々と話をしているあいだに「祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちが近寄ってきて、彼らが人々に教えを説き、イエス自身に起った死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て」た。AAJ 58.4

    キリストの復活後、祭司たちは、キリストの遺体がローマの見張り人の眠っているあいだに、弟子たちに盗まれたという偽りの報告を遠くまでひろめていた。だから、彼らはペテロとヨハネが、彼らが殺したキリストが復活したと説いているのを聞いて、不愉快に思ったのは当然のことであった。特にサドカイ人たちは大いに刺激された。彼らは自分たちが最も大事にしていた教理が危くなり、自分たちの名 声にかかわると感じた。AAJ 58.5

    新しい信仰に改心する者たちが激増してきたので、パリサイ人やサドカイ人たちは、これらの新しい教師たちを阻止せず宣伝を続けさせるならば、キリストが地上におられたとき以上に、自分たちの信望が危くなるだろうと話し合った。それで、宮守がしらは何人かのサドカイ人たちの手を借りて、ペテロとヨハネを逮捕し、その日ふたりの取り調べをするには遅かったので、そのまま獄に入れた。AAJ 59.1

    弟子たちの敵は、キリストが死からよみがえられたことを認めざるを得なかった。証拠があまりにも明白で疑えなかった。それにもかかわらず、彼らの心はかたくなになり、イエスを死に陥れたその恐ろしい行為を悔いようとしなかった。弟子たちが神の霊感を受けて語ったり行動しているのだという証拠は十分に、ユダヤの役人たちに示されていたにもかかわらず、彼らは真理の使命に固く抵抗していた。キリストが彼らの期待していたような方法では来られなかったので、彼らは、キリストが神のみ子であると悟ったことも時々あったが、なお、その確信をもみ消して、主を十字架につけたのである。神はなお、あわれみをもって彼らに更に証拠をお与えになり、主に立ち帰るもう一つの機会を今、さずけられた。神は弟子たちをつかわして、彼らがいのちの君を殺したことを告げ、この恐ろしい罪の告発をうけて悔い改めるように、もういちど彼らに呼びかけられた。しかし、ユダヤの教師たちは、おのれの義に安んじて、キリストを十字架にかけた責任を迫る人々が、聖霊の導きによって語っているのを認めなかった。AAJ 59.2

    キリストに反対しつづけた結果、祭司たちにとって、反抗のあらゆる行為は、同じ反対を次々に誘発する刺激となった。彼らの強情はますますその度を増した。彼らは服従することができないというのではなく、服従できたのに、そうしようとしなかったのである。彼らが救いから断ち切られたのは、ただ単に、罪を犯して、死に値するからというばかりではなかった。それは、彼らがみずから武装して神に反抗したからであった。彼らは頑固がんこに光を拒み、み霊の、罪を認めさせる働きを押しもどした。不従順な子らを支配する影響力が彼らの中で働き、神に用いられて働いている人々を口ぎたなくののしった。彼らの悪意にみちた反逆は、神と、神がそのしもべたちに伝えさせようとお与えになった使命とに敵対して抵抗する行為のたびごとに、激しさを増していった。ユダヤの指導者たちは、毎日悔い改めを拒むごとに、反抗を新たにして、既にみずからまいたものを刈り取る準備をしていた。AAJ 60.1

    神の怒りは、単に罪人の犯した罪のために彼らの上に下るのではなく、罪を悔い改めるよう求められたときに、彼らがその呼びかけに抵抗しつづけ、彼らに与えられた光を無視して、過去の罪を繰り返すことを選んだために下るのである。もしユダヤの指導者たちが聖霊の説得力に服従していたならば、彼らはゆるされていたはずである。だが、彼らは従うまいと決意していた。同様に、罪びとは拒みつづけることによって、聖霊がもはや感化できないところにわが身を置くのである。AAJ 60.2

    足なえをいやした翌日、アンナスとカヤバは、その他の宮の高位聖職者たちと共に、裁判のために集まった。ふたりの囚人たちが彼らの前に連れてこられた。その同じ部屋で、何人か同じ顔ぶれの人たち の前で、ペテロは以前に、恥知らずにも自分の主を拒んだのであった。ペテロは、今、自分が裁かれるために出頭して、この事をはっきりと思い出した。ペテロにとっては今こそ、自分の臆病おくびょうを償う時であった。AAJ 60.3

    そこに連なっていた人々は、キリストが裁かれた時にペテロが取った行為を覚えていて、ペテロは今、投獄と死の恐怖におじけづいているであろうと、高をくくっていた。しかし、キリストが最も苦しんでおられた時に、主を拒んだペテロは、衝動的で、自信家であったが、取り調べを受けるためにサンヒドリンに連れて来られたペテロは、以前のペテロとは違っていた。彼は、つまずいて以来、改心していた。彼はもはや誇らず、高慢にならず、謙遜で、自己に頼らない者になっていた。ペテロは聖霊に満たされ、聖霊の力によって、一度捨てたみ名をあがめ、自分の背信の汚点を取り除く決意であった。AAJ 61.1

    これまで祭司たちはイエスの十字架の刑や復活について語ることを避けていた。しかし、今、彼らは目的を達成するにあたって、足のきかない男のいやしがどのようにしてなされたのか、調査せざるを得なかった。「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」と、彼らは尋ねた。AAJ 61.2

    ペテロは敬虔けいけんな勇気と、聖霊の力によって、恐れることなく言明した、「あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・ キリストの御名によるのである。このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。AAJ 61.3

    この勇敢な抗弁にユダヤの指導者らは胆をつぶした。サンヒドリンの前に引き出されたら、弟子たちはきっと恐れ、とまどうにちがいないと、彼らは想像していたのである。ところがそれどころか、この証人たちはキリストがお語りになったように、敵を黙らせてしまうような説得力で語った。キリストこそは「あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石」であると断言したペテロの声に、恐怖の色はみじんもなかった。AAJ 62.1

    ペテロはここで、祭司たちがよく知っている比喩ひゆを用いた。昔から預言者たちは捨てられた石について語っていた。キリストご自身も、あるとき、祭司や長老たちにお語りになって、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」(マタイ二一ノ四二-四四)と言われた。AAJ 62.2

    使徒たちの大胆な言葉を聞いていた祭司たちは、「彼らがイエスと共にいた者であることを認め」た。AAJ 62.3

    弟子たちがキリストの変貌を目撃したとき、その驚くべき光景の最後に「彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった」と書かれている(マタイ一七ノ八)。「イエスのほかには」という言葉には、初代教会の歴史を特徴づけたいのちと力の秘訣ひけつが包含されている。弟子たちは最初、キリストのみことばを聞いたとき、自分たちには主が必要だと思った。彼らは主を求めて、見いだし、そして、主に従った。彼らは、宮で、食卓で、山腹で、また野で、主と共にいた。彼らはひとりの師を持つ弟子たちとして、毎日主から永遠の真理について教えを受けた。AAJ 63.1

    救い主の昇天後も、なお、弟子たちには愛と光に満ちた神の臨在感があった。それは人格を備えたおかたの存在であった。彼らと共に歩き、語り、祈られた救い主イエス、また、彼らの心に希望と慰めをお語りになったイエスは、平和の福音を語っておられるあいだに、彼らから天へと上げられたのであった。天使たちの馬車が主を迎え入れたとき、主のみことばが下ってきた、「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ二八ノ二〇)。キリストは人の姿で天に昇られた。弟子たちは、キリストが神のみ座の前におられても、なお、彼らの友であり、救い主であられること、主の思いやりは変わらないこと、主は苦しむ人類といつまでも一体になられるということを知っていた。主があがなわれた人々のために支払われた値を思い出させる、傷ついた手と足を神にお示しになって、ご自身の血の功績を神に献呈しておられることを、弟子たちは知っていた。そして、そのことが分かったとき、弟子たちには、主のために受ける非難に耐える力がわいた。彼らとキリストとの結合は、今や、 主が人間の姿をとられて彼らと共におられたときよりも、もっと強かった。内住するキリストの光と愛と力は、弟子たちから輝き出て、それを見る人々の目を見張らせた。AAJ 63.2

    キリストは、ペテロが主を弁護して語ることばにご自身の印を押された。この弟子のすぐわきに、説得力のある証人として、奇跡的にいやされた男が立った。数時間前まで無力な足なえであったが、今、健全な体にかえったこの男の容貌ようぼうは、ペテロの言葉に対する重要な証拠となった。祭司や役人たちは沈黙した。彼らはペテロの供述に論駁ろんばくできなかったが、それでもなお、弟子たちの教えを中止させようと決めた。AAJ 64.1

    キリストの最高の奇跡-ラザロのよみがえり-は、世界からイエスとその驚くべきみわざを除こうとする祭司たちの決定を、既に変更できないものにした。それが民衆に対する祭司たちの影響を、速やかに打ちこわしつつあったからである。こうして、彼らはイエスを十字架にかけてしまった。しかし、今やここに、主のみ名によって奇跡を行い、イエスが教えられた真理を宣伝するのを、祭司たちが中止させることができなかったという、確かな証拠があった。足なえのいやしと使徒たちの説教は、すでに、エルサレムを興奮の渦中に巻き込んでいた。AAJ 64.2

    祭司や役人たちは当惑をかくすために、使徒たちを連れ去らせるように命じた。自分たちだけで協議しようと思ったからである。その男がいやされたことを否定するのは無益だということに、彼らは全員同意した。彼らは、できればその奇跡を偽りで包みかくしてしまいたいと思った。しかし、これは不可 能であった。その奇跡は白昼、群衆の前で行われて、既に何千人もの人々がそれを知っていたからである。祭司や役人たちは、弟子たちの働きをやめさせなければならないと思った。そうしなければ、イエスが多くの信者を獲得してしまうであろう。そうなると、自分たちが神のみ子の殺害者という罪をきせられることになり、自分たちの恥辱になるであろう。AAJ 64.3

    しかし、祭司たちは、弟子たちを抹殺したいと願ったにもかかわらず、もし弟子たちが依然としてイエスの名によって語ったり、伝道をつづけるならば、最も過酷な罰を与えるとおどす以外どうしようもなかった。彼らはサンヒドリンの議会にもういちど弟子たちを呼び出して、イエスの名によって語ったり、教えたりしないように命じた。しかし、ペテロとヨハネはこれに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。AAJ 66.1

    祭司たちはこのふたりが神の召しに確固たる忠誠を示しているという理由で、思うままにふたりを罰したいと思った。しかし、彼らは民衆を恐れた。「みんなの者が、この出来事のために、神をあがめていた」からである。そこで、弟子たちは何度もおどされ、きびしくいましめられて、釈放された。AAJ 66.2

    ペテロとヨハネが捕らわれていたとき、他の弟子たちはユダヤ人たちの悪意を知っていたので、キリストに示した残酷なことをまた繰り返すのではないかと恐れて、この兄弟たちのためにひたすら祈っていた。ふたりの使徒たちはゆるされるとすぐ、あとの弟子たちを探し、彼らに尋問の結果を報告した。 信徒たちは非常によろこんだ。一同は、「口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、『天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。あなたは、わたしたちの先祖、あなたの僕ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、「なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、もろもろの民は、むなしいことを図り、地上の王たちは、立ちかまえ、支配者たちは、党を組んで、主とそのキリストとに逆らったのか」。まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい』」。AAJ 66.3

    弟子たちは、キリストが地上におられた時に遭遇された、断固たる反対に自分たちもうことを知ったので、彼らの任命された働きの上に大きな力がさずけられるように祈った。心を合わせてささげられた信仰の祈りは天にのぼり、その答えがかえってきた。彼らの集まっていた場所が揺れ動き、彼らは新たに聖霊をさずけられた。彼らの心に勇気がみなぎり、再びエルサレムへ神のみことばを伝えに出て行った。「使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをし」、神は彼らの努力に、信じられないほどの祝福をお与えになった。AAJ 67.1

    イエスの名をこれ以上語ってはならないという命令に対して、「神に聞き従うよりも、あなたがたに 聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」と答えて、弟子たちは恐れなくその主義に立った。これは宗教改革の時代に、福音を信じる者たちが戦い抜いて守ったものと同じである。一五二九年にドイツの諸侯がシュパイエル会議に召集された時、宗教の自由を抑圧し、それ以後、改革派の教理の宣伝を厳禁する皇帝の勅令が出された。この世界の希望はまさに抹殺されようとしていた。諸侯はその勅令を受け人れるだろうか。福音の光は、今もなお暗黒の中にいる多くの人々から閉ざされてよいだろうか。世界の大問題が危機にひんしていた。そこで改革派の信仰を受け人れていた人々が集まり、「この勅令を拒否しよう。良心の問題について多数決ということは言えないはずだ」と満場一致で可決した(ドービニエ-著「宗教改革史」第一三巻・五章)。AAJ 67.2

    今日、われわれはこの原則を確固として支持しなければならない。その時以来、幾世紀にわたり、福音教会の創設者や神の証人たちが高くかかげてきた真理と宗教の自由の旗は、この最後の争闘においてわれわれの手にゆだねられている。この大いなる賜物の責任は、聖書の知識をさずけられた人々の上にかかっている。われわれは、聖書のことばを最高の権威として受け人れる。われわれは人間の政府を神が定められたものとして認め、合法的な範囲内でそれに従うことを、聖なる義務として教えなければならない。しかし、その要求が神のご要求と矛盾するときは、人間よりむしろ神に従わねばならない。神のみことばをすべての人間の法律にまさるものとして認めねばならない。「教会がこう言う」、あるいは「国がこう言う」ということのために、「主がこう言われる」ということを放棄してはならない。キ リストの王冠は、この世の主権者の王冠より高くかかげられねばならない。AAJ 68.1

    われわれは、権威を無視するようには求められていない。法と秩序に反対する者と思われるようなことをしゃべったとして記録されることがないように、話す言葉でも、書く言葉でも、注意深く気をつけなければならない。われわれの道を不必要に閉ざすようなことを、言ったりしたりしてはならない。われわれはキリストのみ名によって前進し、ゆだねられた真理を擁護しなければならない。もしこの働きを人々から禁じられるような場合には、使徒たちと同じように、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」と答えることができる。AAJ 69.1

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