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各時代の希望 - Contents
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    第14章 「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」

    本章はヨハネ1:19~51に基づくDA 729.1

    ヨハネはいまヨルダンの向こうのベタニヤで説教をし、バプテスマを施していた。イスラエル人が渡ってしまうまで、神が川の流れをとめられたのはこの地点から遠くないところだった。ここから少し離れたところにあるエリコのとりでは、天の軍勢によって倒壊させられたのだった。いまこうした事件の記憶が新たによみがえり、バプテスマのヨハネのことばに感動的な興味が加わった。昔こんなにふしぎなみわざをされた神は、ふたたびイスラエルの救済のためにその力をあらわされるのではないだろうか。こうした思いが、毎日ヨルダン川の岸辺にむらがり集まってきた人たちの心をゆり動かしていた。DA 729.2

    ヨハネの説教は、宗教当局者たちの注意をひくほど国民の中に深く食いこんでいた。反乱の危険があったために、民衆の集りはみなローマ人から疑いの目でみられ、民衆の暴動を指向するようなことは何でもユダヤ人の役人たちの不安をかきたてた。ヨハ祖、サンヒドリンの権威を認めなかったので、自分の働きに彼らの承認を求めようとしなかった。そして彼は役人も民衆も、パリサイ人もサドカイ人も同じように謎責した。それでも民衆は熱心に彼に従った。彼の働きに対する関心はたえず高まっているようにみえた。ヨハネはサンヒドリンの意見に従わなかったが、サンヒドリンはヨハネが公の教師として彼らの管轄下にあるものとみなした。DA 729.3

    サンヒドリンは祭司職や役人の長や国民の教師たちの中からえらばれた議員で構成されていた。通例大祭司が議長であった。その議員たちはみな、老人というほどではないが、年配の人々で、またユダヤ人の宗教と歴史ばかりでなく一般の知識にも精通している学問のある人たちであった。彼らは肉体的な欠陥のない人であり、そして結婚した人、また父親でなければならなかった。それは彼らがほかの人たちよりも人情と思いやりがあったからである。サンヒドリンの会議場は、エルサレムの神殿に付属している部屋であった。ユダヤ人の独立時代には、サンヒドリンは国家の最高裁判所として、宗教上の権威はもちろん世俗一般の事について、権威をもっていた。いまはローマ総督に従属していたが、それでもなおサンヒドリンは宗教上のことばかりでなく、民事上のことがらにも強い影響力を及ぼしていた。DA 729.4

    サンヒドリンはヨハネの働きについての審問を引き延ばすことができなかった。中には、宮でザカリヤに示された啓示と、息子をメシヤの先駆者としてさし示した父親の預言とを思い起す者もあった。30年の混乱と移り変りの中に、こうしたことは大部分忘れられていた。ヨハネの伝道についての騒ぎからそうしたことがいま思い出されてきた。DA 729.5

    イスラエルにはもう長い間預言者もなく、またいま進行しているような改革もみられなかった。罪の告白を要求されるということは新しい驚くべきことにみえた。指導者たちの多くは、自分自身の生活の秘密をばくろされるのを恐れて、ヨハネの訴えと罪の譴責とを聞きに行こうとしなかった。だが彼の説教はメシヤについて直接の発表であった。メシヤの来臨を含むダニエルの70週の預言がほとんど終ったことは よく知られていた。人々はみなその後に期待される国家的な繁栄の時代が来るのを熱心に待っていた。民衆がこのように熱心だったために、サンヒドリンはヨハネの働きを是認するか、否定するかのどちらかに迫られていた。すでに民衆に対する彼らの勢力はだんだん衰えていた。彼らの地位をどうやって維持するかが重大な問題となっていた。何らかの結論に達するだろうというので、彼らはこの新しい教師と協議するために、祭司とレビ人の代表団をヨルダン川に派遣した。DA 729.6

    群衆が集まって、ヨハネのことばに耳をかたむけていた時、代表者たちが近づいてきた。民衆を威圧し、預言者から敬意を受けようとの意図の下に、この高慢なラビたちは威厳のある様子でやってきた。ほとんど恐れに近い尊敬の動作をもって、群衆は彼らを通すために道を開いた。豪華な衣服を身につけ、地位と権力を誇るえらい人たちが荒野の預言者の前に立った。DA 730.1

    「あなたはどなたですか」と彼らは聞きただした。DA 730.2

    彼らの心中を察したヨハネは、DA 730.3

    「わたしはキリストではない」と答えた。DA 730.4

    「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか。」DA 730.5

    「いや、そうではない。」DA 730.6

    「では、あの預言者ですか。」DA 730.7

    「いいえ。」DA 730.8

    「あなたはどなたですか。わたしたちをつかわした人々に、答を持って行けるようにしていただきたい。あなた自身をだれだと考えるのですか。」DA 730.9

    「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」DA 730.10

    (ヨハネ1:19~23参照)。DA 730.11

    ヨハネが引用した聖句はイザヤのあの美しい預言である。「あなたがたの神は言われる、『慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ……た』。呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高低のある地は平らになり、険しい所は平地となる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る』(イザヤ40:1~5)、DA 730.12

    昔、王が自分の領上のめったに訪れたことのない地方を旅行する時には、一団の人々が、王の戦車より先に行って、けわしい道を平らにし、穴を埋めて、王が安全に支障なく旅行できるようにした。福音の働きを例示するために預言者イザヤはこの習慣を引用して、「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ」と言っている(イザヤ40:4)。神のみたまが人をめざめさせるふしぎな力をもって魂にふれる時、人間の誇りは低くされる。世の楽しみ、地位、権力は無価値にみえる。「神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」る(Ⅱコリント10:5)。その時、人々に重んじられていない謙遜と自己犠牲の愛が唯一の価値あるものとして高められる。これが福音の働きであり、ヨハネの使命はその一部分であった。DA 730.13

    ラビたちは質問をつづけた。「あなたがキリストでもエリヤでもまたあの預言者でもないのなら、なぜバプテスマを授けるのですか」(ヨハネ1:25)。「あの預言者」というのは、モーセのことをさしていた。ユダヤ人は、モーセが死人の中から甦(よみが)えらせられて天につれて行かれると信じたがっていた。彼らはモーセがすでに甦えらせられたことを知らなかった。バプテスマのヨハネが伝道を始めた時、多くの者はヨハネのことを死から甦えらせられた預言者モーセかも知れないと思った。それはヨハネが預言とイスラエルの歴史についてくわしい知識を持っているようにみえたからである。DA 730.14

    メシヤの来臨前にはエリヤが姿をとって現われるということも信じられていた。この期待に対して、ヨハネは自分はエリヤではないと答えた。だが彼のことばにはもっと深い意味があった。イエスは、のちになってヨハネのことを、「もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなの である」と言われた(マタイ11:14)。ヨハネは、エリヤのなしたような働きをするために、エリヤの霊と力とをもってきた。もしユダヤ人がヨハネを受け入れていたら、その働きは達成されていたのである。しかし彼らはヨハネの使命を受け入れなかった。彼らにとってヨハネはエリヤではなかった。ヨハネは、ユダヤ人のために達成するためにやってきた使命を果たすことができなかった。DA 730.15

    ヨルダン川に集まった人々の多くは、イエスのバプテスマの時にい合わせた。しかしその時与えられたしるしは彼らの中の少数の者にしかあらわされなかった。これに先立ってバプテスマのヨハネが伝道していた何か月もの間、多くの者は悔い改めを促す声に注意しようとしなかった。こうして彼らの心はかたくなになり、理解力は暗くなっていた。イエスのバプテスマの時に天の神がイエスについてあかしをたてられた時、彼らはそれを認めなかった。目に見えないキリストに信仰をもって向けられたことのなかった目は、神の栄光のあらわれを見なかった。そのみ声をきいたことのなかった耳は、あかしのことばをきかなかった。いまも同じである。キリストと奉仕の天使たちが人々の集まりの中におられることがはっきりしているのに、それに気づかない人が多い。彼らは普通とちがった点を何も認めない。だがある人々には、救い主の臨在が示される。平和と喜びが彼らの心を活気づける。彼らは慰められ、励まされ、祝福される。DA 731.1

    エルサレムからの代表団はヨハネに、「なぜパプテスマを授けるのですか」と聞きただしてその返事を待っていた。すると突然、群衆を見渡したヨハネの目が輝き、その顔が明るくなり、彼の全身全霊が深い感動に動かされた。彼は両手をさしのべて叫んだ、「わたしは水でバプテスマを授けるが、あなたがたの知らないかたが、あなたがたの中に立っておられる。それがわたしのあとにおいでになる方であって、わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」(ヨハ子1:26、27)。DA 731.2

    このことばは、明白で少しのあいまいさもなく、そのままサンヒドリンへ伝えられた。ヨハネのことばは、ほかならぬ長年約束されていたお方にあてはめることができた。メシヤが自分たちの中におられる。驚いた祭司たちと役人たちは、ヨハネの語ったお方をみつけようと思って、まわりを見まわした。だがメシヤは群衆の中にあって見分けがつかなかった。DA 731.3

    イエスのバプテスマの時、ヨハネが神の小羊としてイエスを指さした時、新しい光がメシヤの働きを照らした。預言者の心はイザヤの、「彼は……ほふり場にひかれて行く小羊のように」ということばに向けられた(イザヤ53:7)。その後幾週間にわたって、ヨハネは新しい興味をもって預言と犠牲制度の教えについて研究した。彼は、キリストの働きの二つの面、すなわち苦難のいけにえと勝利する王との両面をはっきり見分けていなかったが、キリストの来臨には祭司たちや民が認めていたよりももっと深い意味があることを知った。荒野から帰ってこられたイエスを群衆の中にみかけた時、ヨハネは、イエスがご自分の真の性格について何かしるしを民にお与えになるものと確信をもって期待した。待ちきれないような思いをもって、ヨハネは救い主がご自分の使命を宣言されるのを聞こうとして待った。だがひとことも語られず、一つのしるしも与えられなかった。イエスは、ご自分についてのヨハネの発表に答えられなかった。イエスはご自分の特別な働きについて外面的な証拠を与えたり、人々の注目をご自分にひきつけるような手段をとったりなさらず、ただヨハネの弟子たちの中にまじっておられた。DA 731.4

    次の日、ヨハネは、イエスがおいでになるのを見る。神の栄光の光がこの預言者の上にとどまると、彼は両手をさしのべて宣言する、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。わたしはこのかたを知らなかった。しかしこのかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである。……わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼 の上にとどまるのを見た。わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」(ヨハネ1:29~34)。DA 731.5

    これがキリストなのだろうか。おそれと驚きの思いをもって、人々はいま神のみ子と宣言されたお方を見つめた。彼らはヨハネのことばに深く心を動かされていた。彼は神のみ名によって人々に語っていた。彼らはヨハネが彼らの罪を責めるのを毎日きき、彼が天からつかわされたのだという確信は日ごとに強くなっていた。しかしこのバプテスマのヨハネよりも偉大なお方というのは一体だれなのだろう。その服装にも態度にも身分をあわらすようなものは何もなかった。見たところその人は彼らと同じように貧しい人々の着る粗末な衣服をまとったただの人間にすぎなかった。DA 732.1

    群衆の中には、キリストのバプテスマの時、天来の栄光を見、神のみ声を聞いた人々がいた。しかしその時から救い主の様子はすっかり変っていた。バプテスマの時にはイエスの顔は天の光に神々しくみえたが、いまは青ざめ、やつれ、衰えておられ、預言者ヨハネしかイエスを認めることができなかった。DA 732.2

    しかし人々がイエスを見つめた時、彼らはそこに天来の憐れみと意識的な力とのまじりあったお顔を見た。その目付きにも、その顔付きにも、謙遜が目立っていて、言い表しようのない愛があらわれていた。イエスは霊的感化の雰囲気につつまれておられるようにみえた。イエスの態度はやさしく気取らないものであったが、かくされていてもかくしきれない力の意識が人々を印象づけた。この人こそ、イスラエルが長年待っていたお方なのだろうか。DA 732.3

    イエスは、われわれのあがない主であると同時にわれらの模範となるために、貧乏と屈辱のうちにこられた。もしイエスが王者らしいきらびやかさをもって出現されたのだったら、どうして謙遜をお教えになることができただろう。どうして山上の垂訓にみられるような鋭い真理をお示しになることができただろう。もしイエスが王として人々の中に住むためにこられたのだったら、身分のいやしい者の望みはどこにあっただろう。DA 732.4

    しかしながら群衆にとって、ヨハネから小されたお方は、彼らの崇高な期待とはどうしてもむすびつけられないようにみえた。こうして多くの者が失望し、大いに当惑した。DA 732.5

    祭司たちとラビたちが非常にききたがっていたことば、すなわちイエスがいまイスラエルに王国を回復されるのだということばは語られなかった。このような王を、彼らは待ち望んでいた。このような王を彼らは受け入れようとしていた。しかし彼らの心に義と平和の王国を築こうとなさるお方を、彼らは受け入れようとしなかった。DA 732.6

    次の日、2人の弟子たちがそばに立っていた時、ヨハネはまたイエスを群衆の中にみいだした。ふたたび預言者の顔は目に見えない神の栄光に照らされ、彼は、「見よ、神の小羊」と叫んだ。このことばは弟子たちの心を感動させた。彼らはそのことばを十分に理解しなかった。ヨハネがイエスのことを「神の小羊」と呼んだその名にどういう意味があるのか、ヨハネ自身も説明したことがなかった。DA 732.7

    弟子たちは、ヨハネを残したまま、イエスを求めに行った。2人の中の1人は、シモンの兄弟アンデレだった。もう1人は伝道者ヨハネだった。この2人がキリストの最初の弟子だった。おさえきれない衝動にうこかされて、彼らは、イエスと語りたいと熱望しながらも、おそれの思いに沈黙したまま、「この方がメシヤだろうか」という重大な意味をもった思いにふけりながら、イエスのあとをついて行った。DA 732.8

    イエスは弟子たちが自分のあとからついてきていることをご存じだった。彼らはイエスの伝道の初穂だったので、これらの魂がご自分の恵みに応じた時、この天来の教師の心にはよろこびがわいた。だがイエスは、ふりかえって、「何か願いがあるのか」とおた ずねになっただけだった。イエスは彼らがひき返そうと、あるいは彼らの望みを語ろうと、自由にさせようとお思いになった。DA 732.9

    一つの目的だけを彼らは意識していた。一つの存在が彼らの思いを占めた。彼らは、「ラビ(訳して言えば先生)どこにおとまりなのですか」と叫んだ(ヨハネ1:38)。道ばたでの短い会見では、彼らの熱望しているものは得られないのであった。彼らはイエスとだけになり、その足下にすわり、みことばを聞きたいと望んだ。DA 733.1

    「イエスは彼らに言われた、『きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう』。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった」(ヨハネ1:39)。DA 733.2

    もしヨハネとアンデレが祭司たちや役人たちのように不信な気持をいだいていたら、彼らはイエスの足下に学ぶ者とはならなかったであろう。彼らは批判者としてイエスのところへやってきて、そのみことばを批判したであろう。多くの者はこのようにして最もとうとい機会に対して戸をとざす。しかしこの最初の弟子たちはそうはしなかった。彼らはバプテスマのヨハネの説教のうちにあった聖霊の召しに応じていた。いま彼らは天来の教師のみ声を認めた。彼らにとってイエスのみことばは新鮮さと真理と美しさに満ちていた。天来の光が旧約聖書の教えを照した。真理の多方面のテーマが新しい光の中にはっきりとうつし出された。DA 733.3

    魂が天の知恵を受けることができるのは、くだけた心と信仰と愛によってである。愛によって働く信仰は知識の鍵であり、愛する者はみな、「神を知っている」(Ⅰヨハネ4:7)。DA 733.4

    弟子ヨハネは、まじめで深い愛情を持ち、熱烈でしかも瞑想的な人だった。彼はキリストの栄光が、これまで待望するように教えられていたような世俗的なきらびやかさと権力ではなく、「父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちて」いることを認め始めていた(ヨハネ1:14)。彼はこの驚くべきテーマについて瞑想にふけった。DA 733.5

    アンデレは自分の心を満たした喜びをわけ与えようとつとめた。彼は、兄弟のシモンをさがしに行って、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」と叫んだ(ヨハネ1:41)。シモンは次の招きを待たなかった。彼もまたバプテスマのヨハネの説教をきいていたので、救い主のもとへ急いだ。キリストの目はシモンにとまり、彼の性格と経歴とを読みとられた。彼の感情的な性質、彼の同情と愛の心、彼の野心と自信、彼がつまずき、悔い改め、働き、そして殉教の死をとげる経歴——救い主はそうしたすべてを読みとって、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」と言われた(ヨハネ1:42)。DA 733.6

    「その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、『わたしに従ってきなさい』」(ヨハネ1:43)。ピリポはその命令に従い、その場で彼もまたキリストの働き人となった。DA 733.7

    ピリポはナタナエルを呼んだ。バプテスマのヨハネがイエスを神の小羊としてさし示した時、ナタナエルも群衆の中にいたのである。ナタナエルはイエスを見た時失望した。苦労と貧乏のしるしのあらわれているこの人がほんとうにメシヤだろうか。それでもナタナエルはイエスをこばむ決心ができなかった。ヨハネのことばが彼の心に確信を生じさせていたからである。DA 733.8

    ピリポがナタナエルを呼んだ時、ナタナエルは、ヨハネの宣言とメシヤに関する預言について瞑想するために静かな森にひっこんでいた。もしヨハネによって宣言されたお方が救済者なら、そのことを示していただきたいと彼は祈った。すると聖霊が彼の上にくだり、神はその民を顧み、彼らのために救いの角をお立てになったのだという確信が与えられた(ルカ1:68、69参照)。ピリポはこの友人が預言を調べていることを知っていた。そしてナタナエルがいちじくの木の下で祈っていた時、ピリポはそのかくれ場所をみつけた。彼らは木の葉にかくれたこの人目につかない場所でたびたびいっしょに祈ったことがあった。DA 733.9

    「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人……にいま出会った」とのことばは、ナタナエルにとって自分の祈りに対する直接の応答のように思えた。だがピリポの信仰はまだ動揺していた。彼は疑わしそうに、「ヨセフの子、ナザレのイエス」とつけ加えた。ふたたびナタナエルの心に偏見が生じた。彼は、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」と叫んだ(ヨハネ1:45、46)。DA 734.1

    ピリポは論争しなかった。彼は「きて見なさい」と言った。「イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、『見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない』」。ナタナエルは驚いて、「どうしてわたしをご存じなのですか」と叫んだ。「イエスは答えて言われた、『ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た』」(ヨハネ1:46~48)。DA 734.2

    それで十分だった。いちじくの木の下でただ1人祈っていたナタナエルに証拠を示された聖霊が、こんどはイエスのみことばを通して彼に語られた。疑いと、いくらか偏見にとらわれながらも、ナタナエルは真理を求めるまじめな願いをもってキリストのところにきたのだが、いまその願いがかなえられた。彼の信仰は、彼をイエスのところへ連れていったピリポの信仰にまさった。彼は答えて、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言った(ヨハネ1:49)。DA 734.3

    もしナタナエルがラビの指導を信頼していたら、彼は決してイエスをみいださなかったであろう。彼は自分で見、自分で判断して、弟子となった。今日偏見にとらわれて恵みから遠ざかっている多くの人々の場合も同じである。もし彼らがきて見さえしたら、その結果はどんなに異なったものになるだろう。DA 734.4

    人間の権威による指導にたよっているかぎり、だれも救いの知識である真理に到達することができない、ナタナエルのように、われわれは神のみことばを自分で研究し、聖霊の光を求めて祈る必要がある。いちじくの木の下のナタナエルをごらんになったお方は、かくれた祈りの場所にいるわれわれをごらんになる。光の国の天使たちは、へりくだって天の導きを求める者の近くにいる。DA 734.5

    ヨハネとアンデレとシモン、またヒリポとナタナエルの召しによって、キリスト教会の基礎が置かれた。バプテスマのヨハネは自分の2人の弟1乙をキリストに導いた。その中の1人アンデレは自分の兄弟を見つけて救い主のもとへ呼んだ。それからピリポが呼ばれ、ピリポはナタナエルをさがしに行った。このような模範は、個人的な努力、すなわち肉親や友人や隣人に直接訴えることの重要さをわれわれに教えねばならない。一生の間、キリストを知っていると告白しながら個人的な努力によってたった1人の魂さえ救い主に導いたことのない人たちがいる。彼らは働きの全部を牧師にまかせている。牧師は自分の職責をりっぱに果たすだろうが、しかし神が教会員におまかせになった働きまですることはできない。DA 734.6

    愛に満ちたクリスチャンの心からの奉仕を必要としている人々がたくさんいる。もし普通の男女である隣人たちが個人的な努力をしていたら救われたかもしれない人々がたくさん滅んでしまった。多くの人々は個人的に語りかけられるのを待っている。われわれの住んでいる家庭の中に、隣近所に、町に、キリストの伝道者としてわれわれのなすべき働きがある。われわれがクリスチャンなら、この働きは楽しみとなるであろう。人は信仰を持つとすぐ、自分がイエスというとうとい友をみいだしたことを他人に知らせたいという願いが心の中に生ずる。人を救いきよめる真理を、心の中にとじこめておくことはできないのである。DA 734.7

    神に献身している者はみな、光の通路となる。神は彼らを神の恵みの富を他人に伝える代理人とされる。神はこう約束されている。「わたしは彼らおよびわが山の周囲の所々を祝福し、季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる」(エゼキエル34:26)。DA 734.8

    ピリポはナタナエルに、「きて見なさい」と言った。彼はナタナエルに他人のあかしを信じなさいと言わ ないで、自分でキリストを見なさいと言った。イエスが昇天されたいまは、弟子たちが人々の中にあってキリストの代表者である。だから魂をキリストに導く最も効果的な方法は、キリストの品性をわれわれの日常生活にあらわすことである。他人に及ぼすわれわれの感化は、われわれの言うことばよりはわれわれの人格次第である。人々はわれわれの訴えに抵抗するかもしれない。だが利害を超越した愛の生活は、彼らの否定できない議論である。キリストの柔和が目立っている矛盾のない生活は世における一つの力である。DA 734.9

    キリストの教えは心の内部の自信と経験の表現であったが、キリストについて学ぶ者はキリストのような教師となる。神のみことばが、そのみことばによってきよめられた人によって語られる時、それはいのちを与える力を持っていて、聞く人をひきつけ、みことばこそ生きた現実であることを確信させる。人が真理を愛してこれを受け入れる時、それはその人の信念のある態度と声の調子にあらわれる。彼は他の人々がキリストを知ることによって彼と交わることができるように、いのちのみことばについて自分が見、聞き、手でさわったところを知らせる。祭壇の上から取った燃民ている炭にふれた唇から出る彼のあかしは、信ず賭の心にとって真理であり、品性にきよめが行われる。DA 735.1

    また他人に光を与えようとつとめる者は自分も祝福される。「これは祝福の雨となる」(エゼキエル34:26)。「人を潤す者は自分も潤される」(箴言11:25)。神は、罪人を救うのにわれわれの助けがなくても、目的を達することがおできになったのである。だがわれわれがキリストのような品性を発達させるためには、キリストの働きにあずからねばならない。キリストの喜びすなわちキリストの犠牲によってあがなわれた魂を見る喜びに入るためには、われわれは彼らをあがなうキリストの働きにあずからねばならない。DA 735.2

    ナタナエルの信仰の最初の言いあらわしは、完全で、まじめで、誠実で、それはイエスの耳に音楽のようにきこえた。すると、「イエスは答えて言われた、『あなたが、いちじくの木の下にいるのを見たと、わたしが言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう』」(ヨハネ1:50)。救い主は柔和な者によきおとずれを伝え、心のいためる者をいやし、サタンのとりこに自由を宣言されるご自分の働きを、よろこんで待望された。キリストはご自分が人類にもたらされたとうとい祝福を思って、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」とつけ加えられた(ヨハネ1:51)。DA 735.3

    ここでキリストは事実上こう言っておられるのである。すなわち、ヨルダン川の岸で天が開けて、みたまがはとのようにわたしの上にくだった。その光景はわたしが神の子である証拠にすぎなかった。もしあなたがたがわたしを神の子として信ずるなら、あなたがたの信仰は活発になるであろう。あなたがたは天が開いて決してとじられないのを見せられるであろう。わたしがあなたがたに天を開いたのである。神の天使たちは、困っている人や苦しんでいる人の祈りをたずさえて天の父のみもとに昇り、祝福と望みと勇気と助けといのちとをたずさえて人の子らのもとにくだっているのであると。DA 735.4

    神の天使たちはたえず地から天へ、天から地へかよっている。苦しんでいる者や悩んでいる者たちのためのキリストの奇跡は、天使たちの奉仕を通して神の力によってなされた。あらゆる祝福が神からわれわれのもとにくるのは、キリストを通し、天使たちの奉仕によってである。救い主はご自分に人性をとられることによって、ご自分の利害を堕落したアダムの息子、娘の利害と一致させ、一方またその神性によって神のみ座につながっておられる。こうしてキリストは、人が神と交わり、神が人と交わられる仲介である。DA 735.5

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