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各時代の希望 - Contents
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    第15章 婚宴の席で

    本章はヨハネ2:1~個に基づくDA 736.1

    イエスは、エルサレムのサンヒドリンの前で何か偉大な働きをすることによってその公生涯をお始めにならなかった。ガリラヤの小さな村のある家族的な集まりで、結婚の宴に喜びをまし加えることにイエスの力がそそがれた。こうしてイエスは人々と思いを一つにし、人々の幸福に役立ちたいという願いを示された。イエスは、試みの荒野で、ご自分から苦悩のさかずきをお飲みになった。そして、人々に祝福のさかずきを与え、ご自分の祝福によって人間生活のきずなを聖なるものにするために出ておいでになった。DA 736.2

    イエスは、ヨルダン川からガリラヤに帰っておられた。ナザレから遠くない小さな町カナで結婚式があることになっていた。当人たちはヨセフとマリヤの親類であった。イエスはこの家族の集まりをお知りになると、カナに行き、弟子たちといっしょに婚礼に招かれた。DA 736.3

    イエスはしばらく別れておられた母上にふたたびお会いになった。マリヤは、イエスのバプテスマの時にヨルダン川であらわされたことについて聞いていた。その知らせはナザレに伝えられ、マリヤの心に長年かくされていた光景を新たに思い起させた。すべてのイスラエル人と同じに、マリヤはバプテスマのヨハネの使命に深く動かされた。彼女はヨハネの誕生の時与えられた預言をよく覚えていた。いまヨハネとイエスとのつながりが彼女の望みを新たに明るくした。しかしイエスが荒野へ去られたというふしぎな知らせがマリヤにも聞こえてきたので、彼女は心配な予感で心が重かった。DA 736.4

    マリヤは、ナザレの家で天使のお告げをきいた日から、イエスがメシヤであるという証拠の一つ一つを心にとめていた。イエスの美しい、無我の生活は、イエスが神からつかわされたお方にほかならないことを彼女に確信させた。それでも心に疑いや失望も起ったので、彼女はキリストの栄光があらわされる時を待ち望んでいたのだった。DA 736.5

    マリヤは、イエスの誕生の神秘についていっしょに知っていたヨセフと死に別れていた、いま自分の望みや心配を打ち明けることのできる人はだれもいなかった。過ぐる2か月の間というものは非常な悲しみだった。マリヤはイエスの同情に慰められていたのに、そのイエスと別れていたのだった、彼女は、「あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう」と言ったシメオンのことばを心に思いめぐらした(ルカ2:35)。彼女はまたイエスが自分から永久に失われたと思ったあの3日間の苦悩を思い起した。そして切実な思いをもって、イエスの帰りを待っていた。DA 736.6

    婚宴の席で、マリヤは相かわらずやさしい親孝行な息子であられるイエスに会う。しかしイエスは前のイエスではない。イエスの顔つきは変っている。その顔は荒野における戦いのあとをとどめ、威厳と力の新しい表情がイエスの天来の使命を証拠だてているイエスといっしょに、一団の若い人たちがいて、彼らの目は尊敬をこめてイエスのあとを追い、イエスを先生と呼んでいる。これらの若い人たちは、バプテスマの時やその他のところで見たり聞いたりしたことを、マリヤにくわしく語ってきかせる。彼らは結論として、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエヌにいま出会った」と言明する(ヨハネ1:45)。DA 736.7

    客が集まると、多くの者は何か非常に興味のある話題に心を奪われているようにみえる。抑えられた興奮が一座の人々の間にひろがる。人々の小さ尤かたまりが熱心ながら静かな調子でことばをかわし、ふしぎそうな目つきがマリヤの息子に向けられる。マリヤはイエスについて弟子たちのあかしを聞いて、長い間胸にいだいていた望みがむだでなかったことをよろこんでいた。彼女もまた人間である以上、そのきよい喜びに甘い母親の自然な誇りがまじっていだしても当然であろう。多くの人々の目がイエスの上にそそがれているのを見ると、彼女は、イエスにご自分 が真に神のとうといみ子であることを一座の人々に証明していただきたいと心に願った。彼女はイエスが彼らの前で奇跡を行われる機会があればよいと望んだ。DA 736.8

    結婚の祝宴は数日間つづけられるのが当時の習慣であった。この時、祝宴がまだ終わらないうちにぶどう酒のたくわえが切れてしまったことがわかった。それがわかると大変な困惑と失望とが生じた。祝宴をぶどう酒なしですませるということは例のないことで、ぶどう酒がないことは接待の行きとどかない証拠に思われるのだった。マリヤは当事者の親類として祝宴のしたくを手伝っていたので、その時イエスに、「ぶどう酒がなくなってしまいました」と語った。このことばは、イエスに彼らの必要を満たしてもらえないでしょうかという暗示だった。しかしイエスは、「婦人よ、あなたは、わたしと、何の係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」と答えられた(ヨハネ2:3、4)。DA 737.1

    この答は、われわれにはぶっきらぼうに思えるが、冷淡さや無礼な気持をあらわしているのではない。救い主が母親に語りかけられた形式は、東洋の習慣に従ったものであった。それは尊敬心を示したいと望む相手の人に対して用いられた。キリストの地上生活における行為の一つ一つは、彼ご自身がお与えになったところの、「あなたの父と母を敬え」という戒めに一致していた(出エジプト2:12)。十字架上において、母親に対する最後のやさしい行為として、最も愛する弟子に母親の世話を託された時、イエスにふたたび同じように母親に語りかけられた。婚宴の時でも十字架上でも、声と顔つきと態度にあらわれている愛がイエスのことばの意味を伝えた。DA 737.2

    少年時代に宮におまいりして、ご自分の一生の働きの奥義が目の前に示された時、キリストはマリヤに「わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」と言われた(ルカ2:49)。このことばはイエスの一生と伝道の基調を示していた。すべてのことはイエスの働き、すなわちイエスが成就するためにこの世においでになったあがないの大いなる働きに付随させられた。いまキリストはその教訓をくりかえされた。マリヤはイエスとの親子関係から、自分はイエスに対して特別な要求を持つことができ、またある程度イエスの使命に口を出す権利があると考える危険があった。イエスは、30年の間、マリヤにとってやさしい従順な息子であって、その愛情は変わらなかった。しかしいまイエスは天父のみわざに着手なさらねばならない。いと高き神のみ子として、またこの世の救い主として、イエスは、どんな地上のきずなによってもご自分の使命の達成をさまたげられたり、ご自分の行為に影響を及ぼされたりするようなことがあってはならない。彼は神のみこころをなすのに自由でなければならない。この教訓はまたわれわれのためでもある。神のご要求は人間の関係というきずなにさえまさるものである。どんな地上の魅力によっても、われわれは神がわれわれに歩むように命じておられる道から足をひき返してはならない。DA 737.3

    われわれ堕落した人類のただ一つの望みはキリストのうちにある。マリヤは神の小羊イエスによってのみ救いを見いだすことができた。彼女自身には何のいさおしもなかった。マリヤがイエスと親子関係にあるからといって、彼女とイエスとの霊的な関係は他の魂の場合と異なったものにはならない。このことが救い主のみことばの中に示されている。イエスは彼女に対して人の子としての関係と神のみ子としての関係の区別をはっきりつけておられる。ふたりの間の肉親関係は、決してマリヤをイエスと同等の立場におくものではなかった。DA 737.4

    「わたしの時は、まだきていません」とのことばは、キリストの地上生活における一つ一つの行為が、永遠の昔から存在していた計画の成就であったという事実をさしている(ヨハネ2:4)。イエスが地上においでになる前に、その計画はこまかい点まで完全に彼の前に立てられた。しかし、イエスが人々の中に生活された時、彼は1歩1歩、天父のみこころによって導かれた。イエスは定められた時に行動することをちゅうちょされなかった。同じ服従によって、彼は時がくるまで待たれた。DA 737.5

    自分の時はまだきていないのだとマリヤに言われたことによって、イエスはマリヤの語られない思い、すなわちイスラエルの民と同じように彼女の心の中にいだかれていた期待に答えておられた。マリヤはイエスがメシヤとしてご自分をあらわし、イスラエルの王位につかれるのを望んでいた。しかしその時はきていなかった。イエスは、王としてではなく、「悲しみの人で、病を知っていた」人として人間の運命をお受けになっていた(イザヤ53:3)。DA 738.1

    しかしマリヤは、キリストの使命を正しく認識してはいなかったが、イエスを絶対的に信頼していた。この信仰に、イエスはお答えになった。最初の奇跡が行われたのはマリヤの信頼をとうとび、弟子たちの信仰を強めるためであった。弟子たちは不信への多くの大きな試みに出会うのであった。預言によればイエスがメシヤであるということは彼らにとって議論の余地がないまでに明らかであった。彼らは宗教界の指導者たちが自分たちよりもはるかに大きな確信をもってイエスを受け入れるものと期待した。彼らはキリストのふしぎなみわざを、またキリストの使命に対する自分たちの確信を人々の前に宣言したが、祭司やラビたちが示したイエスに対する不信と根強い偏見と敵意に驚き、ひどく失望した。救い主の初期の奇跡は、弟子たちがこの反対に対して強く立つように力づけた。DA 738.2

    マリヤはイエスのことばに少しも当惑しないで、食卓に給仕している人々に、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」と言った(ヨハネ2:5)。こうして彼女は、キリストのみわざに道を備えるためにできるだけのことをした。DA 738.3

    戸口のそばに6つの大きな石の水がめがあった。イエスは召使いたちにその水がめに水を満たすように言いつけられた。水はいっぱいになった。次にイエスは、ぶどう酒がいますぐ入り用だというので、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」と言われた(ヨハネ2:8)。水のいっぱい満たされた水がめからは、水ではなくてぶどう酒が流れ出た。料理がしらも一般の客もぶどう酒がきれたことには気がついていなかった。召使いたちが持ってきたぶどう酒をなめてみて、料理がしらはそれがいままで飲んだこともないほどすばらしいぶどう酒で婚宴の初めに出されたぶどう酒とちがったものであることに気がついた。彼は花婿に向かって、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」と言った(ヨハネ2:10)。DA 738.4

    人は最初に一番よいぶどう酒を出し、それから後に悪いぶどう酒を出すが、この世の贈物もこれと同じである。この世が与えるものは、初めは人の目をよろこぼせ、感覚を魅惑するかもしれないが、結局は不満足なものである。ぶどう酒はにがくなり、はなやかさは陰気なものとなる。歌と歓楽に始まったものが疲労と不快に終る。しかしイエスの賜物はいつも新鮮で新しい。イエスが魂にお与えになるごちそうは必ず満足と喜びとを与える。新しい賜物が与えられるたびに、それを受ける者には主の祝福を感謝し、よろこぶ能力が増し加わる。主は恵みに恵みを加えられる。恵みのたくわえがつきるということがない。キリストのうちに住むならば、あなたがきょうゆたかな賜物を受けることは、あしたはもっとゆたかな賜物を受ける保証である。ナタナエルに対するイエスのみことばは、信仰の子らに対する神の態度の原則をあらわしている。主の愛が新しくあらわされるたびに、イエスはそれを受け入れる人に向かって、あなたは「信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」と宣言される(ヨハネ1:50)。DA 738.5

    婚宴の席へのキリストの贈物は、一つの象徴であった。水は主の死にあうバプテスマをあらわし、ぶどう酒は世の罪のために流される主の血潮をあらわしていた。水がめを満たす水は人間の手で持ってこられたが、それにいのちを与える効力をさずけることができるのはキリストのみことばだけである。救い主の死をさし示す儀式も同様である。信仰を通して働くキリストの力によってのみ、それらは魂を養う効力があるのである。DA 738.6

    キリストのみことばによって、ふるまいの席に十分な飲み物が備えられた。人の不和を消し去り、魂を新たにし、これを養う主の恵みは同じようにゆたかに用意されている。DA 739.1

    イエスは、弟子たちと一緒に出席された最初の祝宴で彼らの救いのためになされる働きを象徴するさかずきを彼らにお与えになった。最後のばんさんにおいて、イエスは「主がこられる時に至るまで」ご自分の死を示す聖なる儀式を制定されたことによって、もう1度そのさかずきを彼らにお与えになった(Ⅰコリント11:26)。「わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」とイエスが言われた時に、主と別れる弟子たちの悲しみは再会の約束によって慰められた(マタイ26:29)。DA 739.2

    キリストが祝宴にお備えになったぶどう酒、またご自分の血の象徴として弟子たちにお与えになったぶどう酒は、純粋のぶどう汁であった。預言者イザヤが、新しいぶどう酒について、「人がぶどうのふさの中に、ぶどうのしるのあるのを見るならば、『それを破るな、その中に祝福があるから』と言う」と言っているのは、このことである(イザヤ65:8)。DA 739.3

    旧約聖書の中で、「酒は人をあざける者とし、濃い酒は人をあばれ者とする、これに迷わされる者は無知である」と、イスラエルに警告されたのはキリストであった(箴言20:1)。だからキリストはご自分からこんな飲み物を与えるようなことはなさらなかった。サタンは理性をくもらせ、霊的知覚を麻痺(まひ)させるような放縦に人を誘惑するが、キリストは下等な性情を征服するように教えておられる。キリストの一生は克己の模範であった。食欲の力をたちきるために、彼は人間が耐えることのできる最もきびしい試練を、われわれのために受けられた。バプテスマのヨハネに、ぶどう酒や濃い酒を飲まないように指示されたのはキリストであった。同じようにマノアの妻に禁酒を命じられたのもキリストであった。キリストは隣人のロに酒びんをおしつける者の上にわざわいを宣告された。キリストはご自分の教えに矛盾したことをなさらなかった。主が結婚式の客のために用意された発酵しないぶどう汁は衛生的な清涼飲料水であった。その効果は味覚を健康な食欲に調和させるのであった。DA 739.4

    祝宴の客たちがぶどう酒の品質について批評し、召使いたちに質問したので、奇跡の事実がわかった。一座の人々はしばらくは驚きのあまり、そのふしぎなわざをされたお方のことを思いつかなかった。だがついにイエスをさがすと、イエスは弟子たちにさえも知られないように、静かに立ち去られたことがわかった。DA 739.5

    一座の人々の注意はこんどは弟子たちに向けられた。初めて弟子たちはイエスに対する彼らの信仰を告白する機会があった。彼らは自分たちがヨルダン川で見たり聞いたりしたことを語った。すると、多くの人たちの心に、神がご自分の民の救済者を起されたのだという望みの火がともされた。奇跡についての知らせはその地方全体にひろがり、エルサレムにまで伝えられた。祭司や長老たちは新たな関心をもって、キリストの来臨をさし示している預言を調べた。こんな気取らない態度で人々の中に現われたこの新しい教師の使命を知りたいという熱心な希望が起った。DA 739.6

    キリストの伝道はユダヤ人の長老たちの伝道とくらべていちじるしい相違があった。彼らは言い伝えと形式を尊重するあまり、思想や行動の真の自由をまったく殺してしまっていた。彼らはたえずけがれを恐れて生活した。「けがれた者」との接触をさけるために、彼らは異邦人ばかりでなく、自国民の大多数の者から遠ざかり、彼らに益を与えようとも、彼らの友情を得ようともしなかった。たえずこうした問題に気をとられていたので、彼らの心は小さくなり、生活の軌道は狭くなっていた。彼らの手本によって、民衆のあらゆる階級に独善主義と偏狭心が助長された。DA 739.7

    イエスは人類と全く思いを一つにすることによって改革の働きをお始めになった。彼は神の律法に最高の尊敬を示される一方では、パリサイ人のうわべばかりの敬虔さを責め、人々をしばりつけている無 意味な規則から彼らを解放しようとされた。イエスは、人々を一塚族の子供として一つにするために、社会の異なった階級をへだてている壁を打破しようとしておられた。イエスが婚宴の席に出られたことは、こうしたことを達成するための1歩としてくわだてられたのであった。DA 739.8

    神はバプテスマのヨハネが祭司やラビたちの影響を受けないように、そして特別な使命のために準備ができるように、彼に荒野に住むようにお命じになった。しかし彼の厳格で孤独な生活は民の手本にはならなかった。ヨハネ自身、聴衆にこれまでの仕事を捨てるようにとは命じなかった。彼は、神が彼らを召された立場において、神に忠誠をつくすことによって悔い改めの証拠を示すようにと命じた。DA 740.1

    イエスは、あらゆる種類の放縦を責められたが、しかしその性質は社交的であられた。彼はあらゆる階級の人々のもてなしに応じて、金持ちの家でも貧しい人の家でも、学者の家でも無知な者の家でも訪問し、彼らの思いを日常一般の問題から霊的な永遠の問題へ高めようとされた。彼は酒色を認められず、その行為は世俗的な軽薄の影によってくもらされることがなかった。しかし主は無邪気なたのしみの光景によろこびを感じ、自ら出席なさることによって親睦(しんぼく)の集まりを是認された。ユダヤ人の結婚式は印象的な光景で、その喜びは人の子イエスにとって不快なものではなかった。この婚宴の席につらなることによって、イエスは結婚を天来の制度としてとうとばれた。DA 740.2

    旧約聖書にも新約聖書にも、結婚関係はキリストとその民との間に存在するやさしく聖なる結合をあらわすのに用いられている。婚宴の喜びは、キリストがご自分の花嫁を天父の家につれてゆかれ、あがなわれた者とあがない主とが、小羊の婚宴の席にすわるその日の喜びをキリストの心に思わせた。キリストはこう言われる、「花婿が花嫁を喜ぶようにあなたの神はあなたを喜ばれる」。「あなたはもはや『捨てられた者』と言われず……あなたは『わが喜びは彼女にある』ととなえられ、……主はあなたを喜ばれ」る。「彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の口のようにあなたのために喜び呼ばわられる」(イザヤ62:5、4、ゼパニヤ3:17)。使徒ヨハネは、天の事物についてのまぼろしが与えられた時、こう書いた、「わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものをきいた。それはこう言った、『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである』」。「小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」1(黙示録19:6、7、9)。DA 740.3

    イエスは一人びとりの魂を、神のみ国への招待を与えられなければならない者としてごらんになったイエスは人々の幸福を願う者として、彼らの中に入って行くことによって、彼らの心をとらえられた、彼は大通りで、個人の家々で、舟の上で、会堂の中で、湖の岸辺で、婚宴の席で、彼らを求められた。彼は人々が日常の働きをしているところで彼らに会い、彼らの俗事に興味を示された。イエスはご自分の教えを家庭に持ち込み、家族をそれぞれの家庭においてイエスのきよいご臨在の感化のもとにおかれた。イエスの個人的な強い同情は人々の心をとらえる助けとなった。イエスは1人で祈るためにたびたび山へ行かれたが、これは活動的な生活において人々のために働く準備であった。このようなひと時を経て、イエスは、病人をいやし、無知の者に教え、サタンのとりこの鎖をたち切るために出てこられた。DA 740.4

    イエスが弟子たちを訓練されたのは個人的な接触とまじわりによってであった。イエスは、ある時は山腹で彼らの中にすわって教え、ある時は海辺で、ある時は彼らといっしょに道を歩きながら、彼らに神の国の奥義を示された。イエスは今日人々がするように説教をなさらなかった。人々の心が天来のことばを受けようとして開かれているところではどこでも、イエスは救いの道の真理をとき明かされた。イエスは弟子たちにこれをしなさい、あれをしなさいと命令なさらず「わたしに従ってきなさい」と言われた(ルカ9: 59)。彼は民にどう教えるかを弟子たちに見せるために、いなかや町を旅行される時には彼らをおつれになった。イエスは弟子たちと関心を一つにされたので、彼らは働きにおいてイエスと一体となった。DA 740.5

    人類と利害を一つにされたキリストの模範は、キリストのみことばをのべつたえる者やキリストの恵みの福音を受け入れた者のすべてが従わねばならない模範である。われわれは社交的な交わりをたちきるのではない。他の人たちから孤立してはならない。あらゆる階級の人々に接するためには、われわれは彼らのいるところで彼らに会わねばならない。彼らの方からわれわれを求めてやってくることはめったにない。講壇からだけでは人々の心は天来の真理に動かされない。もう一つの働きの領分がある。それは目立たないかもしれないが、大いに有望である。それは身分のいやしい人々の家庭に、身分の高い人々の邸宅に、もてなしの食卓に、無邪気な親睦の集まりの中にみいだされる。DA 741.1

    キリストの弟子として、われわれは、単なる享楽心から世の人々と交わったり、彼らといっしょになって愚かなことをするようなことはしない。こういう交際の結果はただ有害なだけである。われわれのことはやわれわれの行為やわれわれがだまっていることやわれわれがそこにい合わせることなどによって、罪を是認するようなことが決してあってはならない。どこへ行くにも、われわれはイエスをいっしょにおつれし、入々に救い主のとうとさを示すのである。しかし宗教を石の壁の中にかくして保とうとする者は、よいことをするとうとい機会を失う。社交的な関係を通して、キリスト教は世の人々と接触するようになる。天来の光を受けた者はだれでもみな、いのちの光であられるキリストを知らない人々の道を照らすのである。DA 741.2

    われわれはみなイエスの証人となるべきである。社交的な能力は、キリストの恵みにきよめられて、魂を救い主にみちびくのに活用されなければならない。われわれは自分自身の利害問題に利己的に没頭しているのではなく、われわれの祝福と特権とを他人にわけ与えようと願っているのだということを、世の人々に見せよう。われわれの宗教はわれわれを非情にしたり苛酷(かこく)にしたりしないということを世の人々にわからせよう。キリストをみいだしたと言っている者はみな、キリストが人々を益するために働かれたように、奉仕しよう。DA 741.3

    われわれは、クリスチャンは暗い不幸な人たちだというまちがった印象を世の人々に与えるべきではない。もしわれわれの目がイエスにしっかりそそがれているならば、われわれは憐れみ深い救い主を見、そのみ顔の光をとらえるのである。神のみたまに支配されているところにはどこでも平安が宿る。神に対する落ち着いた、聖なる信頼があるので、そこにはまた喜びがある。DA 741.4

    キリストに従う者たちが、人間ではあるけれども神の性質にあずかる者であることを示す時、キリストはお喜びになる。彼らは像ではなく、生きた男女である。彼らの心は神の恵みの露によって生き生きとなり、義の太陽キリストに向かって開き、成長するのである。彼らは自分たちを照らしている光を、キリストの愛に輝いている働きを通して、他人に反射する。DA 741.5

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