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キリストの実物教訓 - Contents
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    第24章 王の婚宴

    本章は、マタイ22:1~14に基づくCOL 1306.4

    礼服のたとえは、わたしたちの前にきわめて重要な教訓を展開している。婚姻は、人性と神性との結合をあらわし、礼服は、婚宴にふさわしい客と認められる者が、みな所有しなければならない品性をあらわすのである。COL 1306.5

    このたとえは、晩餐のたとえと同様に福音の招待が発せられて、ユダヤ民族がそれを拒んだために、異邦人に憐れみ深い招待が発せられたことを教えている。しかし、このたとえでは招待を拒絶した者に対して非常な恥辱と恐ろしい罰があることを教えている。婚宴への招待は王の招待である。それは命令を下す権威者から発せられている。それを受ける者に非常な名誉を与える。しかし、その名誉は正しく評価されなかった。王の権威は軽視された。家の主人の招待の方は、冷淡に扱われたが、王の招待の方には、侮辱と殺害が待っていた。彼らは王の僕たちをあなどり、侮辱を加えて殺してしまった。COL 1306.6

    一家の主人は、自分の招待が軽んじられたのを見ると、招かれた人でその晩餐にあずかる者は1人もないであろうと言った。しかし、王に侮辱を加えた者は、王の面前と彼の食卓から除かれるだけではすまなかった。王は「軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。」COL 1306.7

    どちらのたとえでも、婚宴には客がつれてこられたが、婚宴に出席する者はみな1つの準備をしていなければならないことが、後の方のたとえで示されている。この準備を怠る者は、退けられるのである。「王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいって きたのですか』。しかし、彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。」COL 1306.8

    婚宴への招待は、キリストの弟子たちが発したものであった。わたしたちの主は、はじめに12人を、次に70人をつかわされた。彼らは神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよと人々に呼びかけた。だがこの呼びかけに応じる者はなかった。婚宴に招かれた者たちはこなかった。僕たちはまたつかわされて言った、「食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください。」これはキリストの十字架後に、ユダヤ民族に発せられたメッセージであった。だが、神の特別の民であると自認する民族は、聖霊の力をもって彼らに伝えられた福音を拒んだ。しかも多くの者は、これを非常に軽べつした態度で拒んだ。またある者は、救いが与えられることと、栄光の主を拒絶したことに対する赦しが与えられるという申し出に腹を立てて、使いの者たちを攻撃した。「大迫害」が起こった(使徒行伝8:1)。大勢の男女が獄屋に投げ込まれ、主の使者の中には、ステパノやヤコブのように、殺害された者もあった。COL 1307.1

    こうしてユダヤ民族は、神の憐れみを全く拒絶してしまった。キリストは、こうなることをたとえの中で予告しておられた。王は「軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。」宣言されていた通りの審判がユダヤ人にくだり、エルサレムは破壊され、民族は散らされた。COL 1307.2

    婚宴への3度目の招待は、福音が異邦人に与えられたことをあらわしている。王は言った、「婚宴の用意はできているが、招かれていたのはふさわしくない人々であった。だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい。」COL 1307.3

    大通りに出て行った王の僕たちは、「出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきた。」それは多種多様な人々から成る一団であった。ある者は招待を拒絶した人々と同様、婚宴をもよおした主人になんの関心も持っていなかった。はじめに招かれた者たちは、この世の利益を犠牲にしてまで王の晩餐に出なければならぬことはないと考えた。また招きを受け入れた者であっても、ただ、自分の利益のことしか考えていない者もあった。彼らは婚宴の食卓にあずかるために来たが、王を尊ぼうとする気持ちは少しも持っていなかった。COL 1307.4

    王が来て客を見わたすと、すべての者の本性が明らかであった。それというのは、婚宴に集った客の一人一人のために、あらかじめ礼服が用意されていた。この服は王の贈り物であった。客はこれを着ることによって、婚宴を催した主人に敬意をあらわした。しかし、1人の男はふだん着を着ていた。彼は、王の求めた準備を拒んだのである。高い価を払って彼のために用意されてある服を、彼は無視して着なかった。こうして彼はその主人をさげすんだ。「どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか」という王の質問に、彼は何も答えることができなかった。彼は自分のいけないことを知っていた。その時王は言った、「この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。」COL 1307.5

    こうして、王が婚宴の客を吟味したことは、審判のみわざをあらわしている。福音の婚宴に集まる客は、神に仕えることを表明する者、その名が命の書に書かれている者である。しかしクリスチャンであると告白する者が、すべて本当の弟子なのではない。最後の報酬が与えられる前に、だれが義人の嗣業にあずかるにふさわしいかが、決定されなければならない。この決定は、キリストが天の雲に乗って再臨なさる以前に、行われなければならない。キリストがこられる時には、報いを携えてきて、「それぞれのしわざに応じて報い」られるからである(黙示録22:12)。とすると、主の来臨の前にすべての人のわざがどんなものであるかがさばかれ、キリストの弟子の一人一人は、その行為にしたがって報いが与えられるのである。COL 1307.6

    調査審判が天の法廷で行われるのは、人がまだ地上に住んでいる時においてである。キリストの弟 子であることを表明するすべての者の生活が、神の前で調べられる。すべての者が天の書物の記録に従って吟味され、その行為によって一人一人の運命が永遠に決定される。COL 1307.7

    たとえの中の礼服は、キリストの真の弟子が持つ、清くてしみのない品性をあらわしている。教会は、「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく」、「汚れのない麻布の衣を着る」のである(エペソ5:27、黙示録19:8)。この麻布の衣は「聖徒たちの正しい行いである」と聖書にしるされている(黙示録19:8)。主を自分の救い主として受け入れるすべての者に、信仰を通して与えられるのは、キリストの義であり、キリストご自身の汚れのないご品性である。COL 1308.1

    神が人類を最初に聖なるエデンに置かれた時、彼らが着ていたのは純潔という白い衣であった。彼らは、神のみこころに完全に一致した生活を送った。彼らの深い愛情は、ことごとく天の父にささげられた。美しく柔かい光——神の光——が罪を知らぬアダムとエバを包んだ。この光の衣は、天与の純潔という霊的な着衣の象徴であった。もし彼らがずっと神に真実を尽くしていたら、彼らはいつまでもその光に包まれていたはずであった。しかし罪が侵入した時、神とのつながりは断たれ、それまで彼らを取り囲んでいた光は消え去った。彼らは裸となった自分の身を恥じて、いちじくの葉をぬい合わせておおいを作り、それを天の衣の代わりにしようとした。COL 1308.2

    これは、アダムとエバが神にそむいて以来、神の律法の違反者が常に試みてきたことである。彼らは違反によってあらわれた裸をおおうために、いちじくの葉をぬい合わせて着た。彼らは、自分で工夫した衣を着てきた。彼らは自分のわざによって罪をおおい、神に受け入れられようとしてきた。COL 1308.3

    しかしこれはできることではない。人は、失われた純潔という衣の代わりになるものを工夫することはできない。いちじくの葉で作った衣やこの世の服装がどれほどよいものであっても、それを着てキリストと天使と共に小羊の婚宴に列席することはできないのである。COL 1308.4

    キリストご自身の備えてくださった衣だけが、わたしたちを神の臨在の前に立たせてくれるのである。キリストはこのおおい、すなわち主ご自身の義の衣を、悔い改めて信ずる一人一人の魂に着せてくださるのである。「そこで、あなたに勧める……。あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい」と主は言われる(黙示録3:18)。COL 1308.5

    天の織機で織られたこの衣には、人間の創意による糸は1本も含まれていない。キリストは人性をおとりになって、完全な品性を形成された。そしてこの品性をわたしたちに分け与えてくださるのである。「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」(イザヤ64:6)。わたしたちが自分でなし得ることは、罪で汚れている。しかし神のみ子は「罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない」(Ⅰヨハネ3:5)。罪は「律法を犯すこと」であると定義されている(Ⅰヨハネ3:4・英語欽定訳)。だがキリストは、律法のあらゆる要求に従順であられた。主はご自分について、「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と言われた(詩篇40:8)。主はまた、この地上におられた時、弟子たちに向かって、「わたし(は)わたしの父のいましめを守った」と言われた(ヨハネ15:10)。キリストはその全き従順によって、あらゆる人間が神の戒めに従うことができるようになさった。人が自分自身の心をキリストにささげる時、心はキリストの心と結合し、意志はキリストの意志に没入し、精神はキリストの精神と1つになり、思いはキリストのうちにとらわれて、わたしたちはキリストの命を生きる。これが、キリストの義の衣を着ることである。そして、主がわたしたちをご覧になる時、いちじくの葉の衣でも、裸と罪のみにくさでもなく、エホバなる神の律法への完全な従順であるご自分の義の衣をお認めになる。COL 1308.6

    婚宴の客は王の検査を受けた。王の命じるままに礼服を身につけた者だけが、受け入れられた。福音の婚宴の客もこれと同じである。すべての者が、偉大な王の厳密な検査を通過しなければならない。そ してキリストの義の衣を着ている者だけが、受け入れられるのである。COL 1308.7

    義とは正しい行いである。そしてすべての者は、各自の行為によってさばかれる。わたしたちの品性は、わたしたちの行いに現れる。行いは信仰が本物であるかどうかを示す。COL 1309.1

    キリストはいつわりをおおせにならない。また聖書の教えは、巧みに作られた寓話ではないと確信するだけでは十分でない。わたしたちは、イエスのみ名こそ、人を救う唯一の名であることを信じつつも、なお信仰によって、キリストを自分の救い主として信じないでいることもできる。真理の理論を信ずるだけでは十分でない。キリストへの信仰を表明して、名前を教会名簿に連ねるだけでは十分でない。「神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである。」「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである」(Ⅰヨハネ3:24、2:3)。これが回心のほんとうの証拠である。わたしたちが口で何を言おうとも、キリストが義の行為となってあらわされるのでなければ、それは無にひとしい。COL 1309.2

    真理は心に植えつけられなければならない。それが頭脳を支配し、感情を調節しなければならない。人の品性全体が神の言葉の印を押されなければならない。神のみ言葉の一点一画が、日常生活の中にあらわされなければならない。天の性質にあずかる者は、神の義の標準であるその聖なる律法と調和する。神はこの規準によって人間の行為をおはかりになる。これが審判における品性の試金石となる。COL 1309.3

    律法は、キリストの死によって廃棄されたと主張する者が多いが、これは「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない……。天地が滅びゆくまでは、律法の一点一画もすたることはない」と言われた、キリストご自身の言葉と矛盾する(マタイ5:17、18)。キリストが生命を捨てられたのは、人間が律法にそむいたその罪をつぐなうためであった。律法を変えたり廃されたりできるものであれば、キリストの死の必要はなかった。キリストは、地上の生活によって神の律法をあがめられた。死によって、キリストは律法を確証なさった。キリストは、生命を犠牲としてささげられたが、それは神の律法を廃するためでも低い標準を設けるためでもなく、義が維持されるため、律法の不変性が示されるためであり、律法が永遠に確固として立つためであった。COL 1309.4

    サタンは、人間が神の戒めに従うことは不可能であると主張した。事実、自分の力では、わたしたちは戒めに従うことは不可能である。しかし、キリストは人間の形をとってこられて、人性に神性が結合する時人は神の戒めのあらゆる点に従いうることを、その完全な従順によって立証なさった。COL 1309.5

    「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネ1:12)。この力は人間には備わっていない。それは神の力である。魂はキリストを受け入れる時、キリストのような生活を送る力を受ける。COL 1309.6

    神は、神の子らに完全を求められる。神の律法はご自身の品性の写しであり、またすべて品性の標準である。神がどのような人々によってみ国を構成なさるかについて、だれも間違いをしないように、この永遠の標準がすべての者に与えられている。キリストの地上生活は、神の律法の完全な表現であった。そして、自分は神の子であると表明する者の品性がキリストのようになれば、彼らは神の戒めに従うのである。その時主は、天の家族を構成する一員として、彼らを信頼することがおできになる。彼らはキリストの義の輝かしいよそおいを身にまとって、王の婚宴の座につく。彼らは、血で洗われた会衆に加わる権利を持つのである。COL 1309.7

    礼服をつけずに婚宴に出席した人は、今日のわたしたちの世界の多くの人々を代表している。彼らはクリスチャンであると表明し、福音の祝福と特権にあずかることを主張するが、自分の品性が変えられる必要があるとは思っていない。彼らは真心から罪を悔い改めたことがない。彼らはキリストの必要を自覚せず、キリストへの信仰を働かせない。彼らは、悪 への先天的並びに後天的傾向に勝利していない。それにもかかわらず、彼らは自分は高潔であると思っており、キリストに信頼せずに自分の功績にたよっている。彼らはみ言葉を聞きに婚宴にあつまるが、キリストの義の衣を身につけていない。COL 1309.8

    自らクリスチャンと称する者の中には、単なる道徳家にすぎない者が多い。彼らは、キリストを世にあらわして主をあがめる唯一の賜物を拒んでいる。聖霊のお働きについては、彼らは何も知らないのである。彼らはみ言葉を行わない。キリストと一体である者と、世に結ばれている者とを区別する天の原則は、ほとんど識別することができなくなっている。キリストに従うと表明する者は、もはや特別にわかたれた民ではない。その境界線は明瞭でない。民は世と、そのならわしと、習慣と、利己主義のとりこになっている。世が教会と共に律法に従わなければならないのに、逆に教会が世とともに律法を犯している状態である。教会は日ごとに世に転向しつつある。COL 1310.1

    彼らは、みなキリストの死によって救われることを期待はするが、キリストの自己犠牲の生活を送ろうとしない。彼らは価なくして与えられる豊かな恵みを賛美し、自らをうわべだけの義でおおって、品性の欠陥を隠そうとする。しかし、彼らの努力は主の日になんの役にも立たない。COL 1310.2

    キリストの義は、心中に1つでも愛している罪があれば、それをおおうことをしない。人は、心の中で律法に違反していても、外面的な違反行為を犯さなければ、世間の人々から高潔な人物と見なされるだろう。しかし、神の律法は心の秘密を見ぬく。すべての行為は、その動機によってさばかれる。神の律法の原則に調和している事がらだけが、さばきの時に立ちうるのである。COL 1310.3

    神は愛である。神は、キリストを与えることによってその愛を示された。「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」に「そのひとり子を賜わった」時、神は、ご自分で買いとられた所有である人類に、何1つさし控えることをなさらなかった(ヨハネ3:16)。神は全天をお与えになった。強敵サタンに打ち負かされないように、わたしたちはそこから力と能力を引き出すことができる。だが、神の愛は罪を許容するものではない。神はサタンの罪を許容されなかった。またアダムやカインの罪をも赦されなかった。同様に、いかなる人の子の罪もお赦しにならない。神はわたしたちの罪を黙認したり、品性の欠陥を看過したりなさらない。神はわたしたちに、そのみ名によって勝利することを期待されるのである。COL 1310.4

    キリストの義の賜物を拒む者は、彼らを神の息子、娘とさせる品性を拒んでいるのである、彼らは婚宴の席に連なる唯一の資格であるものを拒んでいるのである。COL 1310.5

    たとえの中で、「どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか」と王に尋ねられた時、この男は黙っていた。このことは大いなる審判の日にもそうである。人々は、今は自分の品性の欠陥の言いわけをすることができても、その日にはなんの言いわけもできない。COL 1310.6

    キリストを告白する現代の教会は、最高の特権に恵まれている。主は、ますます輝かしい光の中でわたしたちに啓示されている。わたしたちの特権は、昔の神の民の特権よりはるかに大きい。わたしたちは、イスラエルに託された大きな光を持っているばかりではない。偉大な救いの確証が、キリストを通していっそう明らかに与えられているのである。COL 1310.7

    ユダヤ人にとって型であり象徴であったものが、わたしたちにとっては実体として与えられている。彼らには旧約の歴史があったが、わたしたちにはそれに加えて新約の歴史がある。わたしたちには来臨なさった救い主、十字架にかかり復活し、開かれたヨセフの墓に向かって「わたしはよみがえりであり、命である」と仰せになった救い主の確証がある。わたしたちがキリストを知り、キリストがわたしたちを愛しておられることによって、神の国はわたしたちのまん中に置かれている。キリストは、説教によってわたしたちに啓示され、歌に歌われる。霊の婚宴は、わたしたちの前に豊かにととのえられている。測り知れない 価で備えられた礼服は、あらゆる魂に無代で提供される。わたしたちは、キリストの義、信仰による義、神のみ言葉のきわめて大きな尊い約束、キリストによって天父に自由に近づくこと、聖霊の慰め、神の国における永遠の生命の保証などが、神の使者によって教えられている。神は、天の婚宴である大晩餐の準備のために、これ以上に何をしてくださることができるであろう。COL 1310.8

    天において、奉仕の天使はこう言っている。わたしたちに行えと命じられた務めを、わたしたちは果たしました。わたしたちは、悪天使の軍勢を押し返しました。わたしたちは輝きと光を人々の心に送り、イエスにあらわされた神の愛を思い起こさせました。わたしたちは、彼らの目をキリストの十字架に引き付けました。彼らの心は、神のみ子を十字架につけた罪を強く悟りました。彼らは罪を自覚しました。彼らは回心の時に、どんな段階をとるべきかを理解しました。彼らは福音の力を感じました。彼らの心は神の愛の尊さを見てくだかれました。彼らはキリストの品性の美しさを見ました。だが多くの者にとって、こうしたことはみな無益でした。彼らは、自分たちの習慣と性質とを神に従わせませんでした。彼らは天の衣を着るために、地の衣服を脱こうとしませんでした。彼らの心は貪欲に満ちていました。彼らは、神を愛するよりも世の交わりを愛しました。COL 1311.1

    最後の決定の日は厳粛な日である。使徒ヨハネは、預言の幻のうちにこう描写している。「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう1つの書物が開かれた。これはいのちの害であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた」(黙示録20:11、12)。COL 1311.2

    人々が永遠の門口に立って、過去を振り返ることは悲しいことである。自分の全生涯がありのままの姿で示される。その時には、世の快楽と富と名誉は、重大なものとは思われない。人々はその時に、自分たちのさげすんだ義だけが価値あるものであることを知る。彼らは、サタンの惑わしのままに、自分たちの品性が形成されたことを悟る。彼らが選んだ衣は、初めからの大背信者への忠誠のしるしであった。その時彼らは自分たちの選択の結果を見る。彼らは、神の戒めを犯すとはどういうことであるかを知る。COL 1311.3

    永遠のために準備する恵みの期間は、もうこれから先にはない。わたしたちがキリストの義の衣を着なければならない時は、この世においてである。主の戒めを守る者のために、キリストがお備えくださった住居を継ぐために、品性を形成する機会はただこれだけである。COL 1311.4

    わたしたちの恵みの期間はすみやかに閉じようとしている。終わりは近い。わたしたちは次のように警告されている、「あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕らえることがないように、よく注意していなさい」(ルカ21:34)。その日に準備ができていないことのないように、気をつけなければならない。礼服をつけずに王の婚宴に連なることのないように、注意しなければならない。COL 1311.5

    「思いがけない時に人の子が来る。」「裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者はさいわいである」(マタイ24:44、黙示録16:15)。COL 1311.6

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