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キリストの実物教訓 - Contents
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    1タラント

    1タラントを渡された者は、「行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。」COL 1326.1

    タラントを活用しなかったのは、一番小さい賜物を渡された者であった。これは、自分の賜物は小さいから、キリストのご用に活用しなくてもよいと思うすべての者に対して与えられた警告である。もし彼らも、何か大きなことができれば、どんなに喜んで、それをすることであろう。しかし、ほんの小さい奉仕しかできないから、何もしなくてよいと、彼らは考えるのである。これは間違っている。神は賜物を分配なさることによって、人の品性をためしておられる。自分のタラントの活用を怠る者は、不忠実な僕である。もし、彼が5タラント渡されたとしても、1タラントを土に埋めたように、5タラントを埋めたことであろう。彼が1タラントを活用しなかったことは、天の賜物を軽視したことをあらわしている。COL 1326.2

    「小事に忠実な人は、大事にも忠実である」(ルカ16:10)。小さい事は、それが小さいために、その重要性が認められない場合がよくある。しかし、小事は、人生において実際によい訓練を与えるものである。クリスチャンの生活の中では、真に不必要なものはない。小事の重要性を軽視するために、品性形成上のあらゆる危険にあうのである。COL 1326.3

    「小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。」どんなに小さい義務であっても、それに不忠実であることは、人間が神につくすべき奉仕を、創造主から奪うことになる。この不忠実さは自己にもどってくる。彼は神に完全に服従することによって、受けることができる恵みと能力と品性の力を、受けることができない。キリストから離れて生活をする結果、サタンの誘惑に負けて、創造主のご用をしながらも誤りをする。彼は、小事において正しい原則に導かれていないから、これは、自分の特別の仕事であるとみなす大事においても、神に従わないのである。人生の小事を扱う時に見られる欠点が、大切なことを扱う時にも及んでくる。日ごろの態度が、何事にもあらわれてくる。こうして、行為をくり返しているうちにそれが習慣となり、習慣は品性を形成し、品性は、わたしたちの現世と永遠の運命を決定するのである。COL 1326.4

    小事に忠実であってこそ初めて、大きな責任が負わせられた時にも忠実に行動するように訓練されるのである。神は、ダニエルと彼の友人たちを、バビロンの偉大な人々の中に置かれたが、これは、異教の中にある人々に、真の宗教の原則を知らせるためであった。ダニエルは、偶像教徒の中で、神の品性の代表者として置かれたのである。ダニエルは、どうして、こうした大きな信頼と栄誉を受けるにふさわしい者になったのであろうか。それは、小事に対する忠実さが、彼の全生活を貫いていたからである。ダニエルは、どんな小さい義務を行う時にも、神をあがめた。神は、ダニエルと共に働かれた。神は、ダニエルとその友人たちに、「知識を与え、すべての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまたすべての幻と夢とを理解した」(ダニエル1:17)。COL 1326.5

    ちょうど神がバビロンにおける証人として、ダニエルを召されたように、今日、この世界において神の証人とするために、わたしたちを召されたのである。神は、わたしたちが、小事においても、大事においても、神の国の原則を人々の前にあらわすように望んでおられる。COL 1326.6

    キリストは、この地上の生活において、小事に注意すべきことをお教えになった。贖罪の大業ということが、常に主の心の重荷であった。主が教えたり、いやしたりなさった時には、主は、その心身の全精力をそのことに集中された。また、彼は、自然の中や人生のごく単純なことに心を留められた。イエスの最大のお教えは、自然界の単純なものを例にあげて、神の国の大真理を説明なさった時に語られたのである。どんなに卑しい僕の必要でさえ、イエスは、見過ごしにされなかった。彼の耳は、必要を訴えるすべての 叫びを聞いたのである。彼は、群衆の中の病に苦しむ女が衣に触れたのを知り、その信仰のかすかな接触に答えられた。また、ヤイロの娘を死からよみがえらせた時に、何か食物を与えるように、両親に注意なさった。また、主が、ご自分の大能の力によって墓からよみがえられた時に、身にまとっておられた衣をたたんで、ていねいに適当な場所に置くことをおいといにならなかったのである。COL 1326.7

    クリスチャンとして、わたしたちがするように召された働きは、キリストと協力して、魂の救いのために働くことである。わたしたちは、すでに、この仕事をすることを主と契約している。この働きを怠ることは、キリストに対して、不忠実であることを表す。しかし、この働きを完成するためには、忠実に良心的に小事をなさったイエスの模範に、従わなければならない。あらゆるクリスチャン活動とその感化がよい結果をもたらす秘訣は、ここにある。COL 1327.1

    神は、民らが最高の階段にまで上って、神が与えようとしておられる能力を所有して、神の栄光をあらわすことを望んでおられる。わたしたちは、世の人々よりは、はるかにまさった計画に従って動いていることを示すあらゆる準備が、神の恵みの下に整えられているのである。わたしたちは、神を信じ、神が人の心に働く力を信じているから、知力と理解力、技術と知識にすぐれていることを示さなければならない。COL 1327.2

    しかし、大きな賜物を与えられなかった者も失望する必要はない。常に品性の弱点に注意しながら、神の恵みによってそれを強めるように努め、持っているものを活用すればよいのである。人生のあらゆる行為の中に真実と忠誠とを織り込み、仕事の完成のために役立つ特質を養うべきである。COL 1327.3

    怠慢の習慣には、断固として打ち勝たなければならない。どんなに大きな過ちをしても、忘れていたと言いわけをしさえすれば、それで十分であると考えている者が多い。しかし、彼らも他の人々と同様の知能をもっているのではなかろうか。それならば、物をよく覚えるように頭を訓練しなければならない。忘れることは罪であり、怠ることは罪である。怠る習慣をつけると、自分の魂の救いを怠るようになり、ひいては、不用意のために、神の国に入ることができなくなるのである。COL 1327.4

    偉大な真理は、小事のなかにもあらわされなければならない。日ごとのどんなに卑しい務めも、宗教的態度で行うべきである。神の言葉に絶対的に従うことが、いかなる人にも、最大の資格を与えるのである。COL 1327.5

    直接宗教の働きに関係がないからといって、自分たちの生涯はなんの役にも立たず神の国の発展のために何もしていないと感じる人が多い。しかし、これは間違った考えである。だれかのしなければならない仕事が与えられているならば、自分たちは神の大きな家族の中で、なんの役にもたたないなどと思ったりしてはならない。どんなに小さな務めでも軽視してはならない。真面目な仕事は、なんであっても祝福である。その仕事を忠実にしているならば、どんな信任でも受ける訓練となるのである。COL 1327.6

    どんな仕事でも、全く自己を捨てて神のために行うならば、神はそれを最上の奉仕としてお受けになる。真心から喜んでささげるささげ物は、なんであっても、小さいものではないのである。COL 1327.7

    たとえ、わたしたちはどこにいても、その場にある義務を果たすように、キリストは命じておられる。もし家庭にいるならば、家庭を楽しい所にするように、喜んで熱心に行いなさい。あなたが母親であれば、子供たちをキリストのために育ててください。これは講壇に立つ牧師と同じく、神のための働きである。また、台所で働くことが、自分の義務であれば、完全な料理人になるように努めなさい。健康的で栄養のあるおいしいものを作りなさい。そして料理に最高の材料を用いる時に、自分の心にも最高の思想がわいてくるような材料を与えなければならないことを、忘れないでもらいたい。また、農業その他の職業に従事している人は、現在している務めを成功させるように努力してください。今している仕事に注意を集中しなさい。どんな仕事をしていても、キリストを代表しなさい。キリストがあなたの立場におられたら、彼がなさる通りにしなさい。COL 1327.8

    タラントは、どんなに小さくても、神には、その使い場所がある。1つのタラントでも賢明に活用されるならば、それは、定められた働きを成し遂げるのである。小さい義務を忠実に果たしていくことによって、わたしたちは、加え算で仕事をしていくけれども、神は、かけ算で、わたしたちのために働いてくださるのである。このような小さいものが神の働きの中で、何よりの貴重な感化となるのである。COL 1328.1

    どんなに小さい義務の遂行にあたっても、生きた信仰が金の糸のようにその中に織り込まれていなければならない。そうすれば、日ごとの仕事の全体が、クリスチャンの成長を助け、イエスを絶えず仰ぎ見るようにする。わたしたちは、キリストを愛しているので、なすすべての事に力が入るのである。こうして、わたしたちは、タラントを正しく活用することによって、わたしたちをより高い世界に、金の鎖で結びつけることができるのである。これが真の清めである。というのは、清めとは神のみこころに完全に従いながら、日毎の務めを快活に行うことであるからである。COL 1328.2

    ところが、何か大きな仕事が任せられるのを待っているクリスチャンが多い。彼らは、自分たちの野心を満足させるに足るような、大きな場所をみつけることができないために、人生の平凡な義務を忠実に果たさない。平常の務めは、あまり興味がないと思っている。こうして、日1日と、神に忠実に仕える機会を逸している。何か大きな事をしようと待っている間に、彼らは、なんの目的も達せず、働きも完成しないで、人生を過ごしてしまうのである。COL 1328.3

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