第17章 預言者エリシャの召し
- 序
- 第1章 ソロモン王の選択
- 第2章 エルサレム神殿の建設
- 第3章 繁栄の落とし穴
- 第4章 権力者が倒れるとき
- 第5章 ソロモン王の改心
- 第6章 王国の分裂
- 第7章 悲劇の王ヤラベアム
- 第8章 急速にひろがった背信
- 第9章 預言者エリヤの出現
- 第10章 罪を責める声
- 第11章 カルメル山の対決
- 第12章 砂漠へ逃れる預言者
- 第13章 失敗から立ちあがる
- 第14章 預言者エリヤの力
- 第15章 妥協するヨシャパテ王
- 第16章 アハブ家の没落
- 第17章 預言者エリシャの召し
- 第18章 悪水を良水にかえる
- 第19章 平和をつくり出す人
- 第20章 大国シリヤからの訪問者
- 第21章 預言者工リシャの貢献
- 第22章 アッスリヤの首都ニネベ
- 第23章 大国アッスリヤの支配
- 第24章 破滅を定めるもの
- 第25章 預言者イザヤの召し
- 第26章 「あなたがたの神を見よ」
- 第27章 大国に援助を求めたアハズ王
- 第28章 熱心な改革者ヒゼキヤ王
- 第29章 虚栄のつけ
- 第30章 大国アッスリヤからの解放
- 第31章 諸国民の希望
- 第32章 暗黒時代をもたらしたマナセ王と改革の星ヨシヤ王
- 第33章 律法の書の発見
- 第34章 立ちあがった預言者エレミヤ
- 第35章 破滅が近い
- 第36章 ユダ王国の最後の王
- 第37章 バビロン捕囚
- 第38章 暗黒を貫く光
- 第39章 バビロン王宮の4青年
- 第40章 ネブカデネザル王の夢
- 第41章 火の燃える炉からの救い
- 第42章 真の偉大さとは何か
- 第43章 目に見えない守護者
- 第44章主義に固く立つ
- 第45章 バビロン捕囚から帰る
- 第46章敵対者に直面して
- 第47章大祭司ヨシュアと天使
- 第48章 権力をこえる力
- 第49章 王妃エステルの決心
- 第50章 学者エズラに導かれた改革
- 第51章 精神の大覚醒
- 第52章 総督ネヘミヤの活躍
- 第53章 市街の建てなおし
- 第54章 搾取に対する譴責
- 第55章 隣国の陰謀
- 第56章 律法の公布
- 第57章 改革が始まる
- 第58章 救い主を待望する人々
- 第59章 理想のイスラエル
- 第60章 栄光にみちた国が来る
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第17章 預言者エリシャの召し
神はエリヤに、もう1人の人に油を注ぎ彼のかわりに預言者とするように、お命じになった。神は言われた、「シャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい」(列王紀上19:16)。エリヤはこの命令に従ってエリシャをさがしに行った。彼が北に向かって旅をしていくと、景色はついさきほどまでとはなんと変わったことであろう。その時は3年半の間、露も雨も降らなかったので、地は乾き、農地は耕されていなかった。ところが今は、どちらを向いても青々としていて、かんばつと飢饉の時を取り返そうとしているかのようであった。PK 473.2
エリシャの父は富裕な農夫であった。そして彼の家族はほとんどすべてのものが背信している時にも、バアルにひざをかがめなかった人々であった。彼らの家では神をあがめ、昔ながらのイスラエルの信仰に忠誠をつくすことが、毎日の生活の規律であった。このような環境の中で、エリシャはその幼少時代を過ごしたのである。彼は静か畑舎の生活の中で、神と自然の教えと有用な働きの鍛練を受け、単純な習慣を養って両親と神に服従することを学んだ。これが後にに彼が占める高い地位に彼をふさわしくする助けとなったのである。PK 473.3
預言者への召しがエリシャに与えられたのは、彼が父のしもべたちと畑を耕していた時であった。彼は自分の最も手近にある膝をしていた。彼は人々間で指導者となる能力もあれば、また常に快く仕える謙遜な気持ちも兼ね備えていた。彼は静かで温和な性質であったけれども、精力的で着実な精神も持ち合わせていた。彼は高潔忠実で、神に対する愛と畏敬の念を持っていた。そして、日常生活のいやしい仕事の中で、確固とした目的と気高い品性を養い、常に恵みと知識を増し加えていった。彼は家庭における務めを果たして、父親と力を合わせているうちに、神とともに働くことを学んでいたのである。PK 473.4
エリシャは小事を忠実に行うことによって、より重い信任を受ける準備をしていた。彼は毎日、実際の経験を通して、より広くより高貴な働きに適したものとなっていった。彼は奉仕することを学んだ。そして彼はこれを学びながら、いかに教え導くかをも学んだのである。これはすべての者が学ばなければならない教訓である。神はどのような目的をもって、われわれに訓練をお与えになるのかはだれにもわからない、しかし、小事に忠実であることがより大きな責任を負わせられるのにふさわしい証拠であることは、だれにも明白である。人生の行為は、すべて、品性をあらわす。そして、小事を忠実に行い、「恥じるところのない錬達した働き人」となる者だけが、より大いなる働きをゆだねられて、神の栄誉を受けることができるのである(Ⅱテモテ21:15)。PK 473.5
小さな務めをどのように行おうと重大なことではないと感じる者は、さらに栄誉ある地位につくのに不適任であることを証明しているのである。その人は大きな任務を果たす力が自分に十分あると考えることであろうが、神は表面よりさらに深いところをごらんになる。PK 473.6
試めされ吟味された上で、「あなたがはかりで量られて、その量の足りないことがあらわれた」という宣告が、彼に対して書かれるのである。彼の不忠実は彼自身に返ってくる。彼は何1つ保留することのない服従によって与えられる恵みと能力と品性の力 とを受け損じるのである。PK 473.7
何か直接宗教的な働きに携わっていないという理由で、自分たちの生涯はなんの役にも立たず、神の国の進展のために何もしていないと感じる者が多い。もし彼らが何か偉大なことをすることができれば、どんなに喜んでそれをすることであろう。しかし、彼らはただ小さい事しかできないから、何もしないでいてよいと考える。これは誤りである。人は、伐採、開墾、耕作などの日常の普通の仕事をしていながら、神のために活発な奉仕に携わることができるのである。子供をキリストのために訓練する母親は、講壇に立っ牧師と同様の働きを神のためにしているのである。PK 474.1
もし行えば、人生を香ばしいものにする身近の義務を見過ごしにしていながら、何か驚くべき働きをする特別の才能を待望している者が多い。PK 474.2
そのような人々は、彼らのすぐ手近にある義務を行うとよいのである。成功は才能ではなくてむしろ、活動力と快く事に当たる精神によるのである。われわれが神に喜ばれる奉仕ができるのは、りっぱな才能を持っているからではなくて、日ごとの務めを良心的に果たし、満足感を持ち、素朴さを失わずに、心から他の人々の幸福を願うことにあるのである。どんなに卑しいと思われる境遇においても真の美徳を見出すことができる。愛のこもった忠実さをもって行われるごく平凡な務めが、神の目に麗しいのである。PK 474.3
エリヤは神の指導のもとに後継者を求めながら、エリシャが働いていた畑を通り過ぎ、青年の肩に献身の外套をかけた。シャパテの家族は、飢饉の間に、エリヤの働きと任務とをよく知るようになった。そして、今、神の霊は預言者の行動が何であるかを、エリシャの心に印象づけたのである。彼にとって、これは、神が彼をエリヤの後継者として召されたしるしであった。PK 474.4
「エリシャは牛を捨て、エリヤのあとに走ってきて言った、『わたしの父母に口づけさせてください。そして後あなたに従いましょう』。エリヤは彼に言った、『行ってきなさい。わたしはあなたに何をしましたか』」(列王紀上19:20)。これは拒絶ではなくて、信仰の試練であった。エリシャは事前によく状況を見きわめて、召しを受けるか拒絶するかを自分で決定しなければならなかった。もしも彼が家庭とその利益とに執着することを望むならば、家庭にとどまることも彼の自由であった。しかし、エリシャは召しの意味を理解した。彼は召しが神から出たものであることを知り、それに従うことをちゅうちょしなかった。彼はどんな世俗的利益のためであろうとも、神の使命者となる機会を見逃したり、または、神のしもべと交わる特権を犠牲にしたりしたくなかったのである。エリシャは、「ひとくびきの牛を取って殺し、牛のくびきを燃やしてその肉を煮、それを民に与えて食べさせ、立って行ってエリヤに従い、彼に仕えた」(同19:21):彼はちゅうちょすることなく、彼を愛した家庭を去って、預言者の不安定な生活につき従っていった。PK 474.5
もしエリシャが彼に何が期待されているか、彼の仕事は何であるかをエリヤに聞いたならば、彼は次のような答えが与えられたことであろう。神は知っておられる。神があなたに知らせてくださるであろう。あなたが神におたずねするならば、神はあなたのすべての質問に答えてくださることであろう。もし神があなたを召されたという証拠があれば、わたしと一緒に来たらよいだろう。わたしの背後には神がおられること、そして、あなたの聞いているのは、神の声であることをよく悟りなさい。もし、あなたが神に喜ばれるために、すべてのものを全く無価値なものと思うことができるならば、来なさい。PK 474.6
キリストは、「永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」とたずねた若いつかさに対して、エリシャに与えられたのと同様の召しを与えられた。「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」(マタイ19:16、21)。PK 474.7
エリシャは後に残した楽しみと慰めとを振り返ろうともせずに、奉仕への召しを受けいれたのである。若いつかさは救い主の言葉を聞いて、「悲しみなが ら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである」(剛9:22)。彼は犠牲を払おうとしなかった。彼の財産に対する愛着は、神に対する愛よりも大きかったのである。彼はキリストのためにすべてを放棄することを拒むことによって、自分自身が主の奉仕をする価値のないことを証明したのである。PK 474.8
奉仕の祭壇にすべてを献げるようにという召しは、すべての者に与えられる。われわれすべてのものは、エリシャのように奉仕することも、また、持っているものを皆売るようにも求められてはいない。しかし、神は、われわれが神への奉仕をわれわれの生活の第一のものとし、この地上において、神の働きを進展させるために、1日に何かを必ず行うことを求めておられるのである。神はわれわれがみな同じ種類の働きをすることを期待しておられない。外国で働くように召される者もあれば、福音の事業を支えるために、財産を献げるように求められる者もある。PK 475.1
神は各自の献げ物をお受けになる。必要なのは生涯とそのすべての影響力とを献げることである。このような献身をする者は、天の神の召しを聞いて、従うのである。PK 475.2
神の恵みにあずかる者となったすべての者に、神は他の人々のためになすべき働きをお命じになる。各自はそれぞれの立場において、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と言わなければならない。み言葉を伝える牧師、または医師、商人、農夫、専門職、技師であっても、人はみな責任が負わせられている。自分が救われた福音を他の人々に伝えることがその人の務めである。どのような仕事に従事していても、それはこの目的のための手段でなければならないのである。PK 475.3
最初、エリシャに要求されたのは、大きな仕事ではなかった。普通一般の務めが、なお、彼の訓練を構成する要素であった。彼はその師、エリヤの手に水を注いだと言われている。彼は主がお命じになることを何でも喜んで行った。そして、そのたびに、彼は謙遜と奉仕の教訓を学んだ。彼は、預言者の個人的な付き添いとして、小事を忠実に行った。それとともに、彼は、日ごとに強い信念をもって、神が彼に命じられた任務に専心した。PK 475.4
エリシャは、エリヤに従ってから後の生涯において誘惑を受けなかったわけではなかった。彼は多くの試練を受けた。しかし、その危急の時に、彼はいつも神に寄り頼んだ。あとに残した家庭のことを考えるように誘惑されたが、彼はこの誘惑に心を留めなかった。彼は手をすきにつけてから、後ろを見るまいと決心した。そして、さまざまの試練を経て、委ねられた任務に忠実であることを示した。PK 475.5
伝道の仕事はみ言葉の説教よりもはるかに多くの事を含んでいる。それはエリヤがエリシャを訓練したように、青年たちを一般の職業から召し出して、まず初めは小さな責任を負わせ、彼らが力と経験を得るに従って大きな責任を負わせるというふうにして、神の働きにおいて、責任を負うように訓練することである、伝道の働きには、信仰と祈りの人、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について一、……すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる」と言うことができる人々がいる(Ⅰヨハネ1:1~3)。PK 475.6
若い未経験な働き人は、こうした経験のある神のしもべたちと実際に一緒に働いて、訓練を受けなければならない。こうして、彼らは重荷を負うことを学ぶのである。PK 475.7
若い働き人にこのような訓練を与える人々は、高貴な任務に携わっている。主ご自身が彼らの努力に協力なさるのである。そして、献身の言葉が語りかけられ、熱心で敬神深い働き人と密接に交わる特権が与えられた青年たちは、この機会を最善に利用しなければならない。神は彼らを神のご用のために選び、彼らがその働きにさらに適した者になることができる場所に彼らを配置して、彼らに栄誉をお与えになった。そして、彼らは、謙遜、忠実、従順で、喜んで犠牲を払う精神をもたなければならない。もし彼らが神の訓練に従い、神の指令を実行し、神のしもべたちを彼らの助言者として選ぶならば、彼らは、正しく、高 い原則に従った着実な人々となり、神から責任を負わせられるに足る人々となることができる。PK 475.8
福音が純粋に宣言されるとき、人々は農園から、また、人々の心の大半を占領している普通の実業から召し出されるのである。そして、彼らは経験のある人々とともに働いて教育を受ける。彼らは効果的に働くことを学ぶにつれて、真理を力強く宣言するようになる。最も驚くべき神の摂理の働きによって、困難の山が動かされて海の中に投げ入れられる。地の住民たちは、実に重大な使命を聞いて理解するのである。人々は真理が何であるかを知るようになる。働きはますます前進してついに全世界に警告が発せられ、それから終わりがくるのである。PK 476.1
エリシャが召されてから後、数年の間、エリヤとエリシャとはともに働き、若者は、日ごとに彼の働きに対する準備を深めた。エリヤははなはだしい罪悪をくつがえすための神の器であった。アハブと異邦の女イゼベルの支持を受けて国民を欺いた偶像礼拝は、決定的打撃を受けた。バアルの預言者たちは殺された。イスラエルの民は、みな、非常に心を動かされ、多くの者は神の礼拝に立ち返った。エリシャはエリヤの後継者として、注意深く、忍耐強い教えによって、イスラエルを安全な道に導くように努力しなければならなかった。彼はモーセ以来の最大の預言者との交わりによって、彼がやがて1人でしなければならない働きの準備が与えられた。PK 476.2
こうして、彼らが一緒に働いていた時に、時々、エリヤは厳しい譴責をもって悪名高い悪事に対処するために召された。PK 476.3
悪王アハブがナボテのぶどう畑を手に入れたとき、アハブの運命と彼の家のすべての者の運命を預言したのはエリヤの声であった。そして、父アハブの死後、アハジヤが生ける神を離れてエクロンの神バアル・ゼブブに従った時に、もう1度、熱烈な抗議をしたのは、エリヤの声であった。PK 476.4
サムエルが建設した預言者の学校は、イスラエルの背信の時代に衰微してしまっていた。エリヤはこうした学校を再建し、若い人々が律法を大いなるものとし、かつ光栄あるものとする教育を受けられるようにしたのである。これらの学校のうち、ギルガルとべテルとエリコにあったものが記録に記されている。エリヤが天に携え上げられる直前に、エリヤとエリシャは、これらの教育の中心地を訪問した。神の預言者は、以前に訪れた時に与えた教訓を、今、また繰り返した。特に、彼は天の神に対して彼らが、真心から忠誠をつくすという彼らの大いなる特権について教えた。彼はまた、彼らの教育のあらゆる面が、簡素を特徴とすべきであることの重要性を彼らの心に印象づけた。このようにして彼らは、初めて天の型を受け、主の道に従って働くために出て行くことができたのである。PK 476.5
エリヤはこれらの学校が達成していることを見て励まされた。改革の働きはまだ完全ではなかった。しかし、彼は、「わたしはイスラエルのうちに7000人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめ」ないという主の言葉が、全国において証明されるのを見ることができた(列王紀上19:18)。PK 476.6
エリシャが預言者エリヤに従って学校を巡回した時に、彼の信仰と決心とがもう1度試みられた。ギルガルまたべテルとエリコにおいても、預言者は、彼に引き返すように勧めるのであった。「どうぞ、ここにとどまってください。主はわたしをエリコにつかわされるのですから」とエリヤは言った。しかし、若い時に畑をすきで耕したときに、エリシャは失望落胆してはならないことを学んでいた。そして今、別の方面の務めに手をつけているのであるから、彼はその目的からそれることを好まなかった。彼はさらに奉仕のための準備の機会がある限り、彼の主人から離れようとしなかった。PK 476.7
エリヤにはわからなかったが、預言者の学校の彼の弟子たち、特にエリシャには、彼が生きながら天にあげられるという啓示が与えられていた。そこで、神の人のしもべは、試みられても彼のそばを離れなかった。引き返すようにというすすめが与えられるたびに、彼は「主は生きておられます。またあなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答え るのであった。PK 476.8
「そしてふたりは進んで行った。…彼らふたりは、ヨルダンのほとりに立ったが、エリヤは外套を取り、それを巻いて水を打つと、水が左右に分れたので、ふたりはかわいた土の上を渡ることができた。彼らが渡ったとき、エリヤはエリシャに言った、『わたしが取られて、あなたを離れる前に、あなたのしてほしい事を求めなさい』」。PK 477.1
エリシャは世的栄誉や地上の偉人たちの間の高い地位を求めなかった。彼が渇望したのは、今まさに天に移される栄誉にあずかろうとしているエリヤに豊かに注がれていた聖霊が豊かに与えられることであった。彼は、神が彼を召されたイスラエルにおける地位に彼を適したものにするのは、エリヤに宿っていた聖霊以外にないことを知っていた。そして彼は「どうぞあなたの霊の2つの分をわたしに継がせてください」と願ったのである。PK 477.2
この要求に対してエリヤは言った、「『あなたはむずかしい事を求める。あなたがもし、わたしが取られて、あなたを離れるのを見るならば、そのようになるであろう。しかし見ないならば、そのようにはならない』。彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった」(列王紀下2:1~11参照)。PK 477.3
エリヤは、キリストの再臨の時に地上に生きていて、死を味わうことなく「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられ」る聖徒の典型である(Ⅰコリント15:51、52)。キリストの地上の生涯の終わりが近づいたころ、変貌の山においてエリヤがモーセとともに救い主のかたわらに立つことを許されたのは、このようにして天にあげられる人々の代表としてであった。PK 477.4
このように栄化された人々は、あがなわれた者の王国を代表するひな型であることを弟子たちは見たのである。彼らはイエスが天の光に包まれておちれるのを見た。彼らは彼を神の子と認める声が「雲の中から」出るのを聞いた(ルカ9:35)。彼らは、再臨の時に死からよみがえる人々を代表するモーセを見た。そこには、また、地上歴史の最後において、死ぬべき者が死なぬ者に変えられて、死を見ることなく天に移される人々を代表するエリヤが立っていたのである。PK 477.5
エリヤは砂漠の中で寂しさと失望のあまり、もはやじゅうぶんであると言い、彼の命がとられることを願ったのであった。しかし、主は彼をあわれんで、その言葉をお受けにならなかった。エリヤにはまだなすべき大きな働きがあった。そして、その働きが終わった時に、彼は失望と孤独のうちに死んでしまうのではなかった。彼は墓に下るのではなくて、天使とともに神の栄光のみ前に昇っていくのであった。PK 477.6
「エリシャはこれを見て『わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ』と叫んだが、再び彼を見なかった。そこでエリシャは自分の着物をつかんで、それを2つに裂き、またエリヤの身から落ちた外套を取り上げ、帰ってきてヨルダンの岸に立った。そしてエリヤの身から落ちたその外套を取って水を打ち、『エリヤの神、主はどこにおられますか』と言い、彼が水を打つと、水は左右に分れたので、エリシャは渡った。エリコにいる預言者のともがらは彼の近づいて来るのを見て、『エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている』と言った。そして彼らは来て彼を迎え、その前に地に伏し」た(列王紀下2:12~15)。PK 477.7
主はみ摂理のうちに彼が知恵をお授けになった人々を、神の働きから取り除くことをよしとされる場合、もしもその後継者たちが、神の助けを仰ぎ望んで神の道に歩くならば、彼らを助け、力をお与えになるのである。彼らはその先輩たちよりも賢くさえなるのである。なぜならば、彼らは先輩たちの経験から利益を得、その誤りから知恵を学ぶことができるからである。PK 477.8
その後、エリシャはエリヤの代わりとなった。小事に忠実であった彼は、大事においても忠実であることを証明するのであった。PK 477.9