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各時代の大争闘 - Contents
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    ファーレルの伝道

    檄文事件によってひき起こされた迫害のずっと以前に、勇敢で熱心なファーレルは、彼の生まれ故郷を去らなければならなかった。彼はスイスに行って、ツウィングリの働きを援助し、宗教改革を有利に導いた。彼は、その余生をここで過ごすことになるのであったが、それでもなお、フランスの改革に決定的な影響を及ぼしつづけた。彼は、亡命後の最初の数年は、故郷に福音を宣布することに特に心を用いた。彼は、国境近くの同胞に説教することに相当の時間を費やし、この場所から絶えず注意深く見守り、励ましと勧告の言葉を送って助けた。彼は、他の逃亡者たちの援助を得て、ドイツの改革者たちの著書をフランス語に翻訳し、フランス語の聖書とともに、大量に印刷した。これらの著書は、文書伝道者によって、フランス国内で広く販売された。文書伝道者にはこれが安価に提供されて、彼らはその利益によって、活動を継続することができた。GC 1703.2

    ファーレルは、つつましい学校教師に変装して、スイスにおける活動を始めた。彼は、遠く離れた教区に行って、子供たちの教育に専念した。一般の学課のほかに、彼は用心深く聖書の真理を教え、子供たちを通じて親たちに伝えようと望んだ。GC 1703.3

    信じる者もいくらか現れたが、司祭たちが彼の働きを妨害したので、迷信的な田舎の人々は、彼に反対するようになった。「それを宣伝すれば平和でなくて争いを起こすのを見ると、それはキリストの福音ではあり得ない」と司祭たちは力説した。28そこで、初期の弟子たちのように、1つの町で迫害されたなら次の町へ逃れた。彼は、飢えと寒さと疲労に耐えながら、そして至る所で生命の危険にさらされながら、村から村、町から町へと歩いて旅をした。彼は、市場や教会で、そして時には大聖堂の説教壇から説教した。時には教会に聴衆が1人もいないこともあった。時には、叫びやののしりの声に妨害されることもあった。また、乱暴に説教壇から引きずりおろされたこともあった。やじうまたちに襲われて、なぐられ、死ぬばかりになったことも何度かあった。それでも彼は前進していった。何度撃退されても、たゆまず攻撃をくり返した。そうしているうちに、法王側の要塞であった町や都市が、次々に福音に門を開くようになるのを彼は見た。彼が最初に働いた小さな教区も、まもなく改革の信仰を受け入れた。モラとヌーシャテルの町々も、ローマの儀式を廃止し、教会から偶像を取り除いた。GC 1703.4

    ファーレルは、かねてから、ジュネーブにプロテスタントの旗を立てたいと願っていた。もしこの町に福音を伝えることができれば、フランス、スイス、イタリアの、宗教改革の中心地となるのであった。彼は、この目的のもとに、働きを継続し、その周囲の多くの町々村々に福音を伝えた。それから彼は、ただ1人の同伴者とともに、ジュネーブに入った。しかし彼は、ただ2回の説教が許されただけであった。国家の権力によって彼を罪に定めようとしてできなかった司祭 たちは、彼を教会会議に呼び出した。彼らは、衣の下に武器を隠し、彼の生命を奪おうとしていた。会場の前には、こん棒や剣を持った群衆が、もし彼が会議を逃れて出て来たら、彼を殺そうと待ちかまえていた。しかし、長官や軍隊がいたために、彼は助かった。翌朝早く、彼と同伴者とは、湖水の向こう岸の安全な地へ送られた。こうして、ジュネーブの最初の伝道は終わった。GC 1703.5

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