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各時代の大争闘 - Contents
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    初期メソジストの苦闘

    こうした初期のメソジストは、説教者も一般信徒も、国教会の会員と彼らの偽りの言葉によって興奮した一般の不信心な人々から、ちょう笑と迫害を受けた。彼らは裁判所に引き出された。しかし、正義の法廷とは名ばかりで、当時、法廷で正しい裁判はまれであった。彼らはしばしば、迫害者たちの暴行を受けた。暴徒が家々を襲って、家財道具を破壊し、手当たりしだいに略奪し、男や女や子供たちを残酷に扱った。またある時には、メソジストの家の破壊と略奪を手伝いたい者は、どこそこにいつ集まれという公の掲示が はられた。このような、人間の律法と神の律法に対する明らかな違反が、なんのとがめもなく許されていた。組織的な迫害が、この人々に加えられたのであるが、彼らの唯一の罪状は、罪人の足を滅亡の道から聖潔の道へ向けようとすることであった。GC 1717.7

    ジョン・ウェスレーは、彼自身と彼の仲間とに対する非難について、次のように言っている。「ある人々はこう言う。この人々の教義は偽りで、誤っていて、狂信的である。新しいもので最近まで聞いたこともないものである。クエーカー的、狂信的、法王教的である。しかし、こうした主張は、全く根拠のないもので、この教義のどの部分も、われわれの教会によって説き明かされた、聖書の明白な教義なのである。それだから、聖書が真実であるならば、これも偽りでも誤りでもあり得ない。」GC 1718.1

    「他の者は、『彼らの教義は、厳格すぎる。彼らは天国への道を狭くしすぎる』と言った。実は、これが、そもそも最初からの反対理由であって(しばらくの間、これがほとんど唯一の反対理由だったのだが)、いろいろな形で現れる多くの反対の根底にひそんでいる。しかしわれわれは、主や使徒たちよりも天国の道を狭くしているであろうか。われわれの教義は、聖書の教義よりも厳格であろうか。ほんの2、3のはっきりした聖句を考えてみたい。『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。』『審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。』『だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。』GC 1718.2

    もしわれわれの教義が、これよりも厳格であれば、われわれにその責任がある。しかし、そうでないことはあなたがたがその良心において、よくごぞんじである。そして、一点においても厳格さを欠きながら、神の言葉を汚さないでおられるものがあろうか。神の奥義の管理者が、その神聖な委託をいくらかでも変えるならば、彼を忠実なしもべということができようか。いや、管理者は、何1つ減らしても、和らげてもならない。彼は、すべての人に向かって、『わたしは、あなたの好みに合わせて聖書を下げることはできない。あなたがそこまで上って来なければならない。さもなければ、永遠の滅びである』と言わなければならない。よく『彼らには愛がない』という叫びがきかれるが、それは実はこうしたことに基づいている。いったい、われわれには愛がないのだろうか。どの点においてであろうか。われわれは、飢えた者に食べさせず、裸の者に着せないのであろうか。『いや、そうではない。彼らはこの点では欠けてはいない。しかし、彼らは、人を裁くことにおいて愛がない。彼らは、自分たちのようにしなければ救われないと考えている』(と反対者たちは言うのだ)。」15GC 1718.3

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